はじめに―建設業界における時代の転換点
令和6年6月14日に公布された建設業法改正は、建設業界が直面する担い手不足という構造的課題に対応するため、労働者の処遇改善と働き方改革を目的とした重要な法制度整備である。この改正法は、これまでの働き方改革関連法とは異なり、建設業界に特化した独自の問題に正面から取り組むものとなっている。
筆者は、京都の中川総合法務オフィスの代表として、数年間にわたり建設業のコンプライアンス研修やリスクマネジメント研修を実施してきた。その過程で、建設業法の逐条解説をサイト上で展開しており、現在5分の1ほどの解説が完了している。本稿では、今回の改正の中でも特に重要な「発注者規制」に焦点を当て、実務への影響と対応策を論じる。
発注者規制の拡大が持つ意義
今回の改正における最大の特徴は、発注者に対する規制が大幅に強化された点にある。ここでいう「発注者」とは、建設業法が定義する広範な概念であり、一般企業や官公庁のみならず、元請負人として下請契約を締結する建設業者も含まれる。
この点、自社が発注者として建設業法の適用を受けるという認識を持たない一般企業も少なくない。しかし、建設業法第2条および別表第一が定める29種類の建設工事を発注する場合、当該企業は確実に同法の規制対象となる。「建設工事」の概念は、同法別表第一において詳細に列挙されているが、その解釈は必ずしも明確ではなく、実務上の判断に迷うケースも多い。
この点について疑義がある場合は、専門家に相談し、自社の発注行為が建設業法上の規制を受けるか否かを明確にすることが肝要である。
現行法における発注者規制の5つの柱
改正法の内容を論じる前に、現行の建設業法が定める発注者規制の基本構造を確認しておく必要がある。
1. 契約書作成義務
民法の基本原理である意思主義によれば、当事者間の意思が合致すれば契約は成立する。これはローマ法に淵源を持ち、ナポレオン法典を経て大陸法系の法体系に継承された基本原則である。
しかし、契約自由の原則を無制限に認めると、経済的に優位な立場にある者が一方的に有利な契約を強制する結果となりかねない。建設業法が契約書作成義務を課す趣旨は、まさにこの力関係の不均衡を是正し、契約内容を書面によって明確化することで、弱い立場にある受注者を保護する点にある。
筆者が約20年前に著作権分野の業務に従事していた際、芸術家やクリエイターが契約書を作成しない慣行に驚愕した経験がある。口頭での約束のみで業務を遂行し、後に紛争が生じるケースが後を絶たなかった。契約書作成義務は、このような事態を防ぐための基本的な制度的保障である。
2. 不当に低い請負代金額の禁止
発注者の立場は構造的に強い。特に官公庁との対話の中で、発注者側が自らの優位性を当然のものとして認識している場面に接することがある。
この力関係の不均衡を背景に、受注者側が「請負負け」と呼ばれる状況に陥ることがある。「どんなに安くても仕事があればいい」という消極的姿勢は、建設業界全体の魅力を損ない、若年層や優秀な外国人労働者の参入を阻害する要因となる。国土交通省が業界の持続可能性を高めようと努力している現状において、不当に低い請負代金の押し付けは、この政策目標に完全に逆行するものである。
3. 著しく短い工期の禁止
工期の短縮は、直接的にコスト削減につながる。しかし、合理的な積算に基づかない短期間の工期設定は、受注者に過度な負担を強いるだけでなく、工事の品質を低下させ、労働者の長時間労働を誘発する。この規制は、適正な工期設定を通じて、受注者の経営の安定と労働環境の改善を図るものである。
4. 所定の見積期間の設定義務
「見積もりは明日までに提出してください」といった不合理な要求は、依然として散見される。適正な見積もりを行うためには、積算の計算期間、他の工事との調整、資材や人員の確保状況の検討など、相応の時間が必要である。所定の見積期間を設定することは、受注者が適正な価格を算定し、無理のない受注判断を行うための前提条件である。
5. 資材購入の強制禁止
契約締結後に、発注者が「より良い資材がある」として特定の資材の購入を強制するケースがある。筆者の親族が住宅を建設した際にも、施工業者から次々と高額な資材の使用を提案され、当初の予算を大幅に超過する事態に直面した。このような一方的な資材購入の強制は、受注者の経営を圧迫し、契約の公正を害するものとして禁止されている。
令和6年改正法の核心―標準労務費の導入
今回の改正法において、最も画期的な制度として導入されたのが「標準労務費」の概念である。中央建設業審議会が適正な労務費の基準である標準労務費を作成・勧告できる制度が新たに設けられた。
「標準労務費」という用語は、極めて秀逸である。この言葉が持つ力は、建設業界に入れば一定水準の賃金が保障されるという明確なメッセージを若年層や転職希望者に伝える点にある。標準労務費を著しく下回る見積依頼や契約の締結を禁止することにより、労働者の処遇改善と業界の魅力向上が期待される。
公共工事設計労務単価は近年上昇が加速しており、直近3年では5~6%の伸びを示している。標準労務費もこの動向を踏まえて設定されることになるため、今後の具体的な基準の策定と運用が注目される。
国土交通省のガイドラインによる標準労務費の明確化は、建設業界における処遇改善の実効性を担保する重要な施策である。
事情変更の原則と協議義務
改正法のもう一つの重要な柱が、事情変更が生じた場合の協議義務である。資材価格高騰による労務費へのしわ寄せを防止するため、事情変更時の協議に関する規定が強化された。
現代社会は、VUCA(Volatility=変動性、Uncertainty=不確実性、Complexity=複雑性、Ambiguity=曖昧性)の時代を超え、さらに予測困難な状況に突入している。客観的な不確実性に加え、主観的な要素が経済活動に大きな影響を与える時代において、事情変更は頻繁に発生する。
このような状況を、ジャーナリズムでは、「BANI」を時代を表す主観的な言葉として使い始めている。Brittle(脆さ)、Anxious(不安)、Non-Linear(非線形性)、Incomprehensible(不可解さ)である。時代の変化が激し過ぎて、建設業界も
資材価格の高騰、為替変動、自然災害の発生など、契約締結時には予見し得なかった事情の変更が生じた場合、発注者と受注者が誠実に協議を行う義務を明確にすることは、契約の公正と取引の安定を確保する上で不可欠である。
この協議義務は努力義務として規定されているが、契約書に事情変更条項を明記することで、その実効性を高めることができる。事情変更の原則は、民法の一般原則としても認められており、その法理論的基盤はローマ法にまで遡る。したがって、建設業法におけるこの規定は、民法の基本原理を建設業の取引実態に即して具体化したものと理解することができる。
法の哲学的基盤―ローマ法から現代へ
法律学を深く理解するためには、その歴史的・哲学的基盤を把握することが重要である。刑法でさえも、その基礎は民法にあり、民法の淵源はナポレオン法典であり、さらにその源流はローマ法に求められる。
フランス革命に象徴される基本的人権の尊重という理念は、現代の法制度全体を貫く基本原理である。建設業法における発注者規制の強化も、この人権尊重の理念に基づき、経済的弱者である受注者の権利を保護し、公正な取引秩序を実現しようとするものである。
こうした法の根本原理を理解することで、個別の法改正の意義を正確に把握し、社会の変化に適切に対応することが可能となる。法律や経営などの社会科学のみならず、哲学思想などの人文科学、さらには自然科学の知見を総合的に活用することが、真のコンプライアンス体制の構築には不可欠である。
施行スケジュールと今後の展望
改正法の施行は、公布から3ヶ月以内(令和6年9月1日施行)、6ヶ月以内(令和6年12月13日施行)、1年6ヶ月以内(今後期日を定める予定)の3段階に分かれている。標準労務費に関する規定を含む主要な改正事項は、令和7年12月までに施行される予定である。
施行日の最終決定は間もなく公表される見込みであり、建設業に関わるすべての事業者は、この改正法への対応を急ぐ必要がある。
結語―コンプライアンスの本質
建設業法の改正は、単なる技術的な規制の変更ではなく、建設業界の持続可能性を確保し、労働者の尊厳を守るための根本的な制度改革である。発注者規制の強化は、力関係の不均衡を是正し、公正な取引秩序を構築するための重要な一歩である。
コンプライアンスの本質は、法令を遵守することにとどまらず、法が目指す理念を理解し、それを組織文化として定着させることにある。今回の改正法が目指す「新4K」(給与がよい、休日がとれる、希望がもてる、カッコイイ)の実現は、発注者、元請業者、下請業者のすべてが協力して初めて達成される目標である。
中川総合法務オフィスのコンプライアンス研修・コンサルティングのご案内
中川総合法務オフィス代表の中川恒信は、建設業法をはじめとする各種法令のコンプライアンス研修において、850回を超える豊富な実績を有しております。不祥事を起こした組織のコンプライアンス態勢再構築の実務経験も豊富であり、内部通報の外部窓口も現に担当しております。
マスコミからも、不祥事企業の再発防止策について意見を求められることが多く、実践的かつ実効性の高いコンプライアンス体制の構築を支援してまいります。
法律・経営などの社会科学に加え、哲学思想などの人文科学、さらには自然科学にも深い知見を有する中川恒信だからこそ提供できる、他では得られない独自の視点と教養に基づく研修内容が特徴です。
サービス内容
- コンプライアンス研修(建設業法、下請法、独占禁止法、労働法等)
- リスクマネジメント研修
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研修費用
1回30万円(税別)
お問い合わせ
電話: 075-955-0307
お問い合わせフォーム: https://compliance21.com/contact/
建設業法改正への対応、コンプライアンス体制の強化について、お気軽にご相談ください。貴社の持続的発展と法令遵守体制の確立を、豊富な経験と深い専門知識でサポートいたします。