はじめに:巨大企業を襲った地面師詐欺の衝撃
不動産のプロフェッショナルである積水ハウスが、白昼堂々、単純ともいえる地面師詐欺の罠に嵌り、55億円もの巨額の被害を被った。このニュースに触れたとき、多くの人が抱いたのは「まさか」という純粋な驚きと、「なぜ」という根源的な疑問ではなかっただろうか。所有者でもない人物が所有者になりすますという古典的な手口が、なぜ日本を代表する大企業で見抜けなかったのか。
この事件の根は、単なる詐欺被害に留まらない、企業のガバナンスとコンプライアンス体制の脆弱性という、より深刻な問題を我々に突きつけている。
見過ごされた警告:内容証明郵便を「取引妨害」と解釈した経営陣
大阪地裁令和4年5月20日の株主代表訴訟判決に目を通すと、驚くべき事実が浮かび上がる。取引の過程で、真の所有者を名乗る者から「土地を売った事実はない」という趣旨の内容証明郵便が複数回にわたり会社に送付されていたのだ。これは、取引の正当性を根底から揺るがす、極めて重大な警告シグナルであったはずだ。
しかし、当時の経営陣はこれを取引の安全性を脅かす赤信号ではなく、取引を妨害しようとする者による不当な干渉、いわば「ノイズ」として解釈した。そして、あろうことか取引は強行され、結果として巨額の損失が発生した。
裁判所は、この一連の判断に対し、「経営判断原則」を適用し、取締役の判断に著しい不合理さまではなかったとして、善管注意義務違反を認めなかった。だが、本当にそうだろうか。我々はこの判決を、思考停止に陥ることなく、批判的な視座から検証する必要がある。
◆積水ハウス地面師詐欺事件の母校での解説
取締役の「免罪符」か?経営判断原則の正しい理解
ここで、裁判所が判断の拠り所とした「経営判断原則」について正確に理解しておきたい。これは、取締役が下した経営上の判断について、後から結果論だけでその責任を問うことはしない、という司法の謙抑的な姿勢を示す法理である。企業経営には常にリスクが伴い、果敢な挑戦の結果としての失敗までをも罰していては、経営が萎縮し、ひいては企業の成長を阻害しかねないからだ。
この原則が適用されるためには、一般的に以下の二つの要件を満たす必要があるとされる。
- 事実認識の過程: 判断の前提となる情報の収集や調査、分析に不注意な誤りがなかったか。
- 意思決定の過程・内容: その事実認識に基づき下された判断が、企業経営者として著しく不合理なものではなかったか。
積水ハウスのケースでは、裁判所は②の「著しい不合理性」はなかったと結論付けた。しかし、我々が真に問うべきは、①の「事実認識の過程」ではないだろうか。内容証明郵便という極めて重い意味を持つ警告に対し、その真偽を徹底的に検証することなく「妨害」と決めつけたプロセスは、果たして「不注意な誤りがなかった」と断言できるものなのだろうか。ここに、本事件の核心と、多くの企業が学ぶべき教訓が隠されている。
【中川総合法務オフィスの視点】判決が示唆するリスク管理の本質
司法の判断は一旦確定したが、企業のリスク管理という観点からは、到底看過できない問題が山積している。
第一に、「正常性バイアス」の罠である。大型取引を進める中で、「これほどの大企業が」「これだけの専門家が関わっているのだから」という思い込みが、客観的なリスク評価の目を曇らせる。目の前の警告を「ありえないこと」として無意識に排除してしまう心理的な罠は、どの組織にも存在する。
第二に、情報の非対称性とコミュニケーションの断絶だ。現場担当者が得たリスク情報が、歪められることなく、あるいは軽視されることなく、正確に経営トップまで届き、冷静に議論される体制が整っていたか。組織の縦割りや、トップへの忖度が、致命的な判断ミスを誘発した可能性は否定できない。
そして何より、コンプライアンスを「守りの経営」としか捉えない発想の限界である。コンプライアンスとは、単に法令を守るだけではない。それは、企業の存続を可能にし、持続的成長を支えるための「攻めの経営基盤」そのものである。今回のような事件は、コンプライアンス体制の不備が、いかに容易に企業価値を根底から破壊しうるかを雄弁に物語っている。
地面師詐欺は、もはや他人事ではない。本人確認書類の偽造手口は巧妙化し、デジタル化の進展が新たなリスクを生んでいる。企業は、登記情報や書類の確認といった形式的なチェックに留まらず、近隣への聞き込みや、取引相手との何気ない会話の中から不審な点を見抜くといった、泥臭いが本質的な確認作業を怠ってはならない。
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■地面師事件の参考判決文 大阪地裁令和4年5月20日判決
【事案】大手ハウスメーカーが、真の所有者からC株式会社が後記の本件各不動産を買い受けたことを前提に、同社との間で本件各不動産を代金70億円で買い受ける旨の契約を締結し、平成29年4月24日、同社に手付金として14億円を支払い、更に同年6月1日、同社に対して残代金として約49億円を支払ったが、実際には本件各不動産の真の所有者はC株式会社に本件各不動産を譲渡しておらず、本件売買契約に係る取引は詐欺グループが仕組んだ架空の取引であった。
【判決】一部抜粋
‥取締役による決裁を経て不動産を購入するに至ったが、それによって当該会社に損害が生じた場合、かかる意思決定に関与した取締役が当該会社に対して善管注意義務違反ないし忠実義務違反による責任を負うか否かについては、取締役に求められる上記の判断が、当該会社の経営状態や当該不動産の購入によって得られる利益等の種々の事情に基づく経営判断であることからすれば、取締役による当時の判断が取締役に委ねられた裁量の範囲に止まるものである限り、結果として会社に損害が生じたとしても、当該取締役が上記の責任を負うことはないと解され、当該取締役の地位や担当職務等を踏まえ、当該判断の前提となった事実等の認識ないし評価に至る過程が合理的なものである場合に は、かかる事実等による判断の推論過程及び内容が著しく不合理なものでない限り、当該取締役が善管注意義務違反ないし忠実義務違反による責任を負うことはないというべきである。
そして、会社によっては、その組織の規模等のために、各種の業務を種々の部署で分担し、その部署に知見や経験を集積して、権限も適宜委譲することによって、専門的知見を要する業務も含めて広汎な各種業務に効率的に対応することを可能とするものもあり、当該会社がこのような大規模で分業された組織形態となっている場合には、取締役がこれらの各部署で検討された結果を信頼してその経営上の判断をすることは、取締役に求められる役割という観点からみても、合理的なものということができる。
そうすると、当該会社が大規模で分業された組織形態となっている場合には、当該取締役の地位及び担当職務、その有する知識及び経験、当該案件との関わりの程度や当該案件に関して認識していた事情等を踏まえ、下部組織から提供された事実関係やその分析及び検討の結果に依拠して判断することに躊躇を覚えさせるような特段の事情のない限り、当該取締役が上記の事実等に基づいて判断したときは、その判断の前提となった事実等の認識ないし評価に至る過程は合理的なものということができる。
被告Aは、本件説明資料やFによる説明により、本件各不動産の所有者本人と称する者から売買をしていない旨の通知書が届いたことなどの事実等を認識するに至っている。
しかし、他方で、被告Aには、本件説明資料によって、旅券の原本確認や公証人による本人認証証書の原本確認等のほか司法書士による確認も含めて十分な本人確認が行われていたことを示す情報ももたらされて いた‥