私は、挫折して、大学は立命館大学であった。法学部。最初の1年間は、必須以外はほとんど行っていない。
4月29日の春の広小路校舎の春期の学園祭には行った。当然に学生であって味わえるはずの気分を一瞬味わった。淡い恋もあったがすぐ消えた。心には残ったが。
下宿は、御所の南側にある東洞院通りにある入江荘であった。同志社の学生がほとんどであった。今でもあると思う。
京大を受けなおすつもりで、銀閣寺にある「私設図書館」に行った。受付のお姉さんは、いつもオロナインの匂いがした。
生活費は、家庭教師で稼いだ。父にはお前にやる金はないと言われたので。兄が私大医学系学部で莫大に金がかかっていた。
孤独地獄であった。それは、すぐに終わると思っていた。しかし、その地獄の苦しみは30歳になるまで続いた。
河原町荒神口のシアンクレールに行くのが癒しであった。入り口近くの窓際に座った。2階のジャズは苦手であった。こもっていたので。いつも一階の定席が空くの待って、そこで、手紙を書いたり、思索にふけった。
広小路の木造の図書館にはしばしば行った。しかし、どちらかというと下宿に引きこもることが多くなっていた。
酷い学生生活であった。挫折感が終始自分に憑りつき暗雲の中で悶々と日々を過ごした。
京都から出たかった。大学は、4回生で単位を集中取得して卒業した。もういい。
京都の土地の歴史や魅力は深かったはずであるが、それに気づかずに東京に行ってしまった。
しかしここで、親友の今は亡きO君と出会った。
このO君との出会いがなかったら、本当に青春らしいものはなかったであろう。彼の一橋大学によく行った。法律の勉強後に大学のある国立の飲み屋や私の住んでいた吉祥寺で語り合うのが最大の楽しみであった。奥さんのMさんとは今も親しくしている。
ロジカルな会話ができた。精神的に刺激し合った。私の生まれ故郷の五箇山に一緒に行ったり彼の川崎の家によく行った。蔵書がすごかった。
立命館の校友会に3万円払って今日会員になった。朱雀校舎の図書館を使いたかったので。終身会員らしい。
矛盾した屈折した挫折感のある気持ちがあるが、これも母校なのか。京都に住む今は付き合いがあってもいいことかもしれない。