はじめに――「現場の常識」が法律違反になる時代
全国を回ってコンプライアンス研修を行っていると、建設会社の経営者や現場監督から「以前からこうしてきた」という言葉をよく聞く。工期優先・休日返上・残業当たり前・下請にしわ寄せ、という構造が、何十年にもわたって「建設業の常識」として定着してきた。
しかし2024年4月、建設業にも時間外労働の上限規制が罰則付きで全面適用された。それまで「業界の特性上やむを得ない」として猶予されてきた5年間が終わり、「以前からこうしてきた」は法律違反として刑事罰の対象となった。
さらに見落とされがちなのが、長時間労働・過労死・未払い残業代を巡る「民事上の企業責任」である。刑事罰の有無にかかわらず、安全配慮義務違反を根拠とした損害賠償請求は年々増加しており、元請会社が直接雇用関係のない下請労働者に対しても責任を負うとした最高裁判例が積み重なっている。
本稿では、建設業の労務問題に関する法的責任の全体像を、一次資料をもとに整理する。
建設業の労務問題の実態――厚生労働省データが示すもの
厚生労働省が令和6年6月28日に公表した令和5年度「過労死等の労災補償状況」は、建設業の深刻な実態を数字で示している。
脳・心臓疾患の労災請求件数は「運輸業、郵便業」244件、「卸売業、小売業」135件、「建設業」123件の順で多く、建設業は全産業中3位となっている。
この数字は請求件数であり、実際に発症しても申告しないケースや、過労との因果関係が立証できずに労災申請に至らないケースを含めれば、潜在的な被害はさらに大きい。
2025年版「過労死等防止対策白書」を見ると、精神障害や脳・心臓疾患に関する労災請求件数は全産業平均と比べて建設業が依然として高水準にある。注目すべきは、データからも明確な改善傾向が見られない点だ。自殺(未遂を含む)以外の精神障害に関する労災請求件数は、働き方改革関連法の施行を見据えた猶予期間において、減少するどころかむしろ増加傾向を示した。
2024年4月に時間外労働の上限規制が本格適用され、制度面では大きな前進が見られる。しかし現場で働く技術者や管理職層からは「負担が減った実感がない」「むしろ精神的なプレッシャーが増えた」という声が根強く聞こえてきており、働きやすい職場環境の整備に向けた取り組みが、むしろ心身へのストレスを高めた可能性がある。 SBbit
2024年問題――時間外労働上限規制の全面適用
上限規制の内容と罰則
2024年4月から、建設業にも時間外労働の上限規制が罰則付きで適用された。原則として時間外労働は月45時間・年360時間以内とされ、臨時的な特別の事情がある場合でも年720時間以内、単月100時間未満(休日労働含む)、複数月平均80時間以内という上限を超えることはできない。
時間外労働の上限を超えると労働基準法違反となり、使用者(会社の代表者や管理責任者)には6カ月以下の懲役または30万円以下の罰金が科される可能性がある。是正勧告に従わず改善が見られない場合は企業名の公表やさらなる法的措置が取られることもあり、悪質な違反が繰り返される場合は労働基準法第119条に基づく刑事罰が適用される。
猶予期間中の5年間は「いずれ適用されるが、今はまだ先の話」という意識が現場に残っていた。しかし2024年4月以降は、36協定の締結状況・実際の労働時間管理・タイムカードや入退場記録の保存が、労働基準監督署の調査対象として直接問われるようになっている。
月60時間超の割増賃金率引き上げ
2023年4月より労働基準法が改正され、中小企業における月60時間を超える法定時間外労働の割増賃金率が25%から50%へと引き上げられた。建設業で中小企業とされるのは、資本金または出資金が3億円以下、もしくは従業員が300人以下の企業だが、2023年4月からは建設業も企業の規模に関係なく、月の時間外労働が60時間を超える場合には50%の割増賃金を支払わなければならなくなった。
施工管理者(現場監督)は、朝の安全朝礼から設計者との調整・書類作成・発注者対応まで、一日の労働時間が構造的に長くなりやすい職種である。月60時間超が常態化している企業では、割増賃金率の引き上げが直接経営コストを押し上げる。「残業代を抑えるために実態を隠す」という対応は、刑事罰と民事責任の双方を招くリスクをはらむ。
安全配慮義務――企業が負う民事上の責任
安全配慮義務の法的根拠
使用者の安全配慮義務は、労働契約法第5条に明文化されている。「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」という規定である。
この義務に違反して労働者が損害を被った場合、企業は民法415条(債務不履行)または民法709条(不法行為)に基づく損害賠償責任を負う。長時間労働による脳・心臓疾患・精神障害・死亡については、「過労死が生じる予見可能性があったにもかかわらず結果回避のための措置を講じなかった」として、多額の賠償が命じられた判例が積み重なっている。
東芝事件(東京高等裁判所平成28年8月31日判決)では、毎月の残業時間が平均で約70時間だったケースについて、ライン立ち上げのリーダーという重責を担っていたことなどを考慮して安全配慮義務違反を認め、東芝に損害賠償を命じている。
安全配慮義務違反が認められるための実務上の目安として、直近6か月の毎月の残業時間が平均で70時間以上になっていなかったかどうかという点が重要なチェックポイントとなる。 建設業の現場監督・施工管理者はこの水準を恒常的に超えるケースが少なくなく、経営者として特に注意を要する。
元請の下請労働者に対する安全配慮義務
建設業における安全配慮義務の重要な特徴が、元請会社が直接雇用関係を持たない下請労働者に対しても義務を負いうる点である。
建設業や造船業では、判例上、自社の従業員に対してのみならず、実質的な使用関係あるいは指揮監督関係がある下請業者の従業員に対しても安全配慮義務を負担すると判断されており、最高裁判所平成3年4月11日判決などがその根拠となっている。
元請業者と下請業者の従業員との間に「特別な社会的接触関係」があるときには、元請業者は下請業者の従業員に対して信義則上安全配慮義務を負う。下請業者の従業員が元請業者の管理する設備や工具などを使っていたり、事実上元請業者の指揮監督を受けて働いていたり、作業内容が元請業者の従業員のものと類似していたなどの事情によって、元請業者と下請業者の従業員との間で実質的な使用関係または間接的な指揮命令関係が認められる場合には、作業現場の安全管理を現実にコントロールしていたとして「特別な社会的接触の関係」があると認められる可能性がある。
「うちが直接雇用しているわけではないから関係ない」という認識は、法的に通用しない。現場の安全管理を実質的にコントロールする立場にある元請は、下請労働者の安全についても責任を負う。
残業代未払い――建設業で頻発するトラブルと発覚経路
建設業における残業代の未払い問題は、「固定残業代(みなし残業)」の設計ミスと長時間労働の常態化という二つの要因が絡み合って発生することが多い。
「技術者手当に残業代を含む」「管理職扱いだから残業代不要」という運用が建設業では広く見られるが、こうした処理が適法かどうかは厳格な要件判断が必要であり、曖昧な取り扱いは後日の未払い残業代請求につながる。
違法な時間外労働・休日労働を従業員にさせていたことを隠していても、明るみに出ることがある。最も考えられるきっかけとしては、従業員が自ら労働基準監督署に駆け込んだ場合だ。建設業の働き方改革がテレビやSNSなどでさらに注目されることで、従業員にも「労働時間」「時間外労働」といったワードにアンテナが立つようになっており、違法な時間外労働に対する未払い残業代請求といった事案が増えてくるだろう。
また、36協定の労働時間の申請実績で、かなり残業時間を強いていたような事業所であれば、すでに労働基準監督署に目を付けられている場合もある。
未払い残業代は時効が3年であり(2020年4月以降の賃金請求権)、退職した元従業員からの請求にも対応しなければならない。1人分の未払いが発覚した場合、他の従業員分も一括して調査・請求されるケースが多く、経営上の打撃となりうる。
建設業固有の労務管理の難点
建設業の労務管理が他業種より難しい理由として、以下の点が挙げられる。
第一に、工期の厳守が絶対的な制約となることだ。発注者・設計者・近隣住民との調整を経て決定された工期は、後からの変更が極めて困難であり、工期遵守のためにしわ寄せが労働時間に向かいやすい。
第二に、天候・地中障害・資材遅延など予見困難な事象による工程変動がある。計画通りに進まない現場の常態が、「やむを得ない残業」という認識を経営者・現場双方に定着させる。
第三に、一人親方・短期雇用者・外国人技能実習生など、雇用形態が多様な労働者が混在することだ。労働時間の把握と管理が困難になりやすく、適法な労務管理が形式的なものにとどまりがちである。
これらの難点は「やむを得ない理由」として法的義務を免除するものではないが、適切な対策を設計するうえでは理解しておく必要がある。
企業が直ちに着手すべきコンプライアンス対策
労働時間の実態把握
まず行うべきは、現状の労働時間の正確な把握である。タイムカード・入退場記録・PCのログオン・オフ記録など客観的な記録を整備し、申告時間との乖離がないかを確認する。「自己申告制」だけに頼った労働時間管理は、監督署の調査では認められないリスクがある。
36協定の適正な締結・管理
36協定を締結していない、あるいは締結していても実態が上限を超えているという状態は、直接的な労働基準法違反となる。協定の有効期限管理、特別条項の適用要件の確認、上限時間の周知を組織として徹底する。
安全衛生管理と健康管理体制の整備
事業者は、労働災害防止のための最低基準を守るだけでなく、快適な職場環境の実現と労働条件の改善を通じて職場における労働者の安全と健康を確保しなければならず、特に建設工事の注文者等仕事を他人に請け負わせる者は、施工方法・工期等について安全で衛生的な作業の遂行を損なうおそれのある条件を附さないように配慮しなければならないとされている(労働安全衛生法第3条)。
月100時間を超える残業が発生した従業員に対する医師面談の実施、長時間労働者のリスト管理、ストレスチェックの実施と結果への対応は、安全配慮義務履行の観点から不可欠である。
まとめ
建設業の労務問題は、2024年4月の時間外労働上限規制の全面適用により「業界の慣行」から「刑事罰の対象となりうる違法行為」へと明確に位置づけが変わった。
しかし、刑事罰よりもむしろ深刻なのが民事上の企業責任である。長時間労働による過労死・精神障害への安全配慮義務違反は、数千万円規模の損害賠償につながりうる。元請は直接雇用関係のない下請労働者への責任も負いうる。未払い残業代は3年分の請求リスクを常に抱えている。
「今まで問題にならなかった」という過去の実績は、今後の免責理由にはならない。
中川総合法務オフィスでは、建設会社向けのコンプライアンス研修・労務管理体制の整備支援を行っております。時間外労働管理・36協定の適正化・安全配慮義務対応についてもご相談ください。初回相談は無料です。お問い合わせはこちら


