はじめに:コンプライアンス経営における内部通報制度の今日的意義
コンプライアンス(法令等遵守)は、現代の企業経営や組織運営において、その根幹をなす極めて重要な要素です。組織が持続的に発展し、社会からの信頼を得るためには、倫理的な規範を守り、法令を遵守する体制の構築が不可欠です。その中でも、組織内部の不正や法令違反を早期に発見し、自浄作用を働かせるための「内部通報制度(公益通報制度)」は、コンプライアンス体制の中核を担うと言っても過言ではありません。
この内部通報制度の根幹をなす「公益通報者保護法」は、時代の変化や社会の要請に応じて見直しが重ねられてきました。特に令和2年(2020年)の改正は、内部通報制度の実効性を高め、通報者をより手厚く保護することを目的とした重要な変更点を含んでいます。法改正に伴い、制度の所管が消費者庁に移管され、同庁からは具体的な運用に関するガイドラインなどが示されています。
本稿では、中川総合法務オフィスの代表として、長年にわたりコンプライアンス、リスクマネジメント、そして相続や著作権といった分野で専門性を培ってきた知見に基づき、改正公益通報者保護法の要点、特に新たに導入された「従事者」概念の意義と、実効性ある内部通報制度構築のポイントについて、多角的な視点から解説します。単なる法解釈に留まらず、組織論、心理学、そして社会全体の倫理観といった、社会科学、人文科学の視点も交えながら、本質に迫りたいと考えます。
なぜ改正が必要だったのか?形骸化する制度と通報者が直面するリスク
法改正に至る背景には、従来の内部通報制度が必ずしも十分に機能していなかったという厳しい現実があります。残念ながら、内部通報を行った個人が特定され、不利益な取り扱いを受ける、あるいは報復人事の対象となるような事例が後を絶ちませんでした。
地元の京都市でも、平成28年9月に、内部告発を受け付ける京都市の公益通報外部窓口の弁護士に通報した男性職員の氏名が、市側に伝えられていたことが発覚しました。京都市は、外部窓口に通報した場合に「了承なく、市へ氏名が伝わることはない」と庁内に周知していますが、通報者には、事前の確認も事後報告もなかったようです。この弁護士は伝達を認め、通報メールに「私が通報者だと推認される覚悟はある。」と会ったことを理由にしているようですが、言い逃れの詭弁ではないでしょうか。京都市の外部窓口は、平成19年に設けたもので、その要綱で「(外部窓口から)市へ氏名の報告は要しない」と定め、職員向けにはチラシなどで「通報者の秘密は守られる」「了承なく、市の職員に名前が伝わることは一切ない」と周知していたようです。
企業においても、品質不正やデータ改ざんといった不祥事が、自動車業界や食品業界などで相次いで発覚しました。これらの多くは、内部からの通報によって是正されるべき問題であったはずですが、実際には通報制度が有効に機能せず、問題が長期化・深刻化するケースが見られました。これは、組織が真の意味で「自律的な是正能力」を獲得できていないことの証左と言えるでしょう。
なぜ、不正を見て見ぬふりをしてしまうのでしょうか。そこには、人間心理における「認知的不協和」が働いている可能性があります。「不正は悪いことだ」という認識と、「自分が行動を起こすことで不利益を被るかもしれない」という恐れの間で葛藤し、結果的に「見なかったことにする」という心理状態に陥るのです。だからこそ、通報者が安心して、かつ確実に声を上げられる「窓口の充実」が、制度の生命線となるのです。
改正法の核心:「従事者」制度の新設と徹底した通報者保護
今回の法改正における最大のポイントは、「通報者の徹底した保護」です。そして、その保護を実質的に担保するために導入されたのが新しい「従事者」という概念です。
「従事者」とは、内部通報の受付や調査、是正措置などに携わる担当者として、事業者(企業や行政機関など)から指定された者を指します。具体的には、通報窓口の担当者、調査担当者、その上司などが想定されます。
この「従事者」には、厳格な守秘義務が課せられます。通報者の氏名や所属部署など、通報者を特定させる可能性のある情報を、正当な理由なく漏洩することは固く禁じられています。違反した場合には、刑事罰(30万円以下の罰金)の対象となります。これは、通報者が安心して情報を提供できる環境を整備するための、極めて重要な措置です。
また、常時使用する労働者数が301人以上の事業者に対しては、内部通報に適切に対応するための体制整備(窓口設置、調査、是正措置など)が義務付けられました。 これにより、一定規模以上の組織においては、内部通報制度の構築と運用が必須となっています。
「特定されないこと」こそが、通報者にとって最大の安心感につながります。「匿名での通報は相手にしない」「通報者へのフィードバックは不要」といった、かつての古い考え方は、もはや通用しません。いまでも、弁護士の書いた内部通報の書籍にはこのような記述があるので十分注意してください。通報者が安心して声を上げられる環境があってこそ、組織は自らの問題を早期に発見し、是正する機会を得ることができるのです。
また、「内部通報者の保護と心理的安全性」は、組織の健全性や持続的成長を支える重要な要素です。両者は密接に関連しており、通報者保護の仕組みが整っているほど、従業員が安心して声を上げられる心理的安全性の高い職場環境が実現します。通報を理由とした解雇、降格、減給、配置転換、嫌がらせなどの不利益な対応があれば、だれが通報するでしょうか。
ここで大切なのが組織の心理的安全性性です。心理的安全性は「組織内で自分の考えや気持ちを安心して発言できる状態」を指します。内部通報制度が形骸化せず、実効的に機能するためには、通報者が「不利益を被らない」「情報が漏れない」と確信できる心理的安全性が不可欠です。逆に、心理的安全性が低いと、通報者が報復や差別を恐れ、不正や問題が組織内に潜在化しやすくなります。通報者の保護体制が万全でなければ、通報者は心理的に不安や恐れを抱き、安心感のない制度は利用が進まないのです。
内部通報者の保護と心理的安全性の両立は、組織の透明性・公正性を高め、持続的な成長と信頼構築に直結します。法令遵守だけでなく、組織文化として根付かせることが、今後ますます重要となるでしょう。
実効性ある内部通報制度を構築するための3つの要諦
改正法が目指す実効性ある内部通報制度を構築し、組織全体のコンプライアンス意識を向上させるためには、以下の3つの要素を高次元で融合させることが不可欠です。
- 倫理(Ethics): 法令遵守は当然のこと、社会規範や企業倫理、公務員倫理に基づいた高い倫理観を組織全体で共有すること。不正を許さないという価値観の浸透が基盤となります。
- リスク管理(Risk Management): コンプライアンス違反がもたらすリスク(レピュテーションリスク、経済的損失、法的責任など)を正確に認識し、予防策と発生時の対応策を講じること。内部通報制度は、リスクの早期発見・対応メカニズムの中核です。
- リーダーシップ(Leadership): 経営層や管理職が、率先してコンプライアンス遵守の姿勢を示し、倫理的な組織風土を醸成すること。トップのコミットメントが、制度の実効性を左右します。
これら3つの要素は相互に関連しており、どれか一つだけが突出していても、組織全体のコンプライアンスレベルは向上しません。
そして、この3つの要諦を内部通報制度に具体的に落とし込む上で鍵となるのが、前述の「従事者」の質です。従事者には、単に手順をこなすだけでなく、コンプライアンスや内部統制に関する十分な知識、そして何よりも高い倫理観と公平性が求められます。通報内容の重大性を理解し、通報者の保護を最優先に行動できる人物が担当することが極めて重要です。私利私欲に走らない「公平な人間」でないといけません。
従事者同士であっても、担当する案件以外の情報共有は厳に慎むべきです。自らの担当範囲を守るという意識が低く緩い頭の持ち主では、意図せず情報漏洩につながるリスクも孕んでいます。
内部通報窓口のあり方:内部完結の限界と外部専門家の活用
理想は、組織内部に通報者を特定させることなく、かつ客観的かつ公正に調査・是正を行える体制が確立されていることです。行政不服審査制度のように、組織内にありながらも一定の客観性を担保する仕組みは不可能ではありません。倫理観と能力の高い人材を配置し、その上司も適切な人物であれば、内部での自浄作用は十分に機能し得ます。
しかし、現実には、特に専門的な知識や調査能力、あるいは絶対的な中立性が求められる場合、内部だけで対応することには限界があります。従事者に対する研修は進められていますが、全ての担当者が十分な訓練を受けているとは限りません。例えば、公正取引委員会の職員が、必ずしも内部通報対応の専門家であるとは限らないのと同じです。
そこで重要になるのが、外部の専門機関や専門家(弁護士など)を相談・通報窓口として活用することです。内部での通報に躊躇する場合や、より高い匿名性・中立性が求められる場合に、外部窓口は有効な選択肢となります。私自身も、顧問として外部窓口を担当していますし、企業や団体のコンプライアンス体制構築を支援もしています。
ただし、注意すべきは、単に弁護士資格を持っているというだけで、誰もがこの分野のプロフェッショナルとは限らないという点です。現代は、あらゆる分野で真の専門性(プロフェッショナリズム)が求められる時代です。内部通報やコンプライアンスは、法律知識だけでなく、組織運営、リスク管理、そして人間の心理や行動に対する深い洞察が不可欠な、複合的な領域です。
私自身は、自らの専門領域を、①コンプライアンス・リスクマネジメント、②相続(地元京都・大阪中心)、③著作権・知的財産、という3つに絞り込み、日々研鑽を積んでいます。一人の人間が深く掘り下げられる専門領域には限りがある、というのが私の実感です。「プロフェッショナルであること」と「プロフェッショナルを装うこと」は全く異なります。
まとめ:改正法を組織の血肉とするために
改正公益通報者保護法は、内部通報制度の実効性を高め、通報者を保護するための重要な一歩です。しかし、法律や制度ができただけでは、組織のコンプライアンスが自動的に向上するわけではありません。
法の趣旨を深く理解し、「従事者」の育成と適切な配置、そして倫理・リスク管理・リーダーシップという3つの柱に根差した組織文化の醸成に、組織全体でコミットすることが不可欠です。
机上の空論ではなく、具体的な事例を用いた研修や、通報者・担当者双方の立場を体験するロールプレイングなどを通じて、制度を「生きた知識」として組織に浸透させることが重要となります。
中川総合法務オフィスでは、豊富な経験と多角的な視点に基づき、各組織の実情に合わせたコンプライアンス体制の構築、内部通報制度の運用支援、そして関連研修の実施などを承っております。本稿が、皆様の組織におけるコンプライアンス推進の一助となれば幸いです。