はじめに
現代社会において、遺言書の作成は個人の意思表示の最終的な発現として重要な意味を持つ。しかし、遺言書作成後に遺言者の意思や状況が変化することは自然な現象であり、そのような状況に法的にどう対応するかは、法学上の重要な課題である。
本稿では、遺言書の撤回擬制に関する法理論、特に「生前行為」や「抵触行為」による撤回擬制について、大審院時代から最高裁判例に至るまでの解釈論の発展を踏まえつつ、実務上の課題と対応策を包括的に論じる。
1. 遺言の撤回と撤回擬制の基本構造
1.1 撤回の法的根拠
民法は、遺言者の自由意思を最大限尊重する立場から、遺言の撤回について次の規定を設けている。
民法第1022条(遺言の撤回)
遺言者は、いつでも、遺言の方式に従って、その遺言の全部又は一部を撤回することができる。
民法第1023条(前の遺言と後の遺言との抵触等)
前の遺言が後の遺言と抵触するときは、その抵触する部分については、後の遺言で前の遺言を撤回したものとみなす。
前項の規定は、遺言が遺言後の生前処分その他の法律行為と抵触する場合について準用する。
1.2 撤回擬制の法理論的根拠
これらの規定の存在理由は、二つの観点から説明される。第一に、通常これらの事実が存在する場合には、遺言者は撤回の意思があると推定できること、第二に、かかる意思が存在しない場合でも、あらかじめ争いの生じるのを避け、遺言者の最終意思の実現を期するため、法的に撤回を擬制したものである。
この法理論は、ローマ法以来の「後法優先の原則(lex posterior derogat priori)」を遺言法に適用したものであり、遺言者の意思の変遷を客観的に把握し、その最終意思を尊重するという近代私法の基本原理に合致する。
1.3 後遺言優先の原則
時日を異にした前後2個の遺言がある場合、死亡に近い後の遺言は、遺言者の最終意思を尊重することから後遺言を優先せしむべきことは、遺言の性質上当然である。これを「後遺言優先の原則」という。
この原則は、単に時間的先後関係だけでなく、遺言者の意思の連続性と変遷を法的に構成する重要な概念である。
2. 前の遺言が後の遺言と抵触する「抵触」解釈の判例法理
2.1 抵触概念の客観的判断基準
抵触の有無の程度は事実問題であるが、形式的に決定すべきではなく、遺言の解釈によりその全趣旨から決定され、両遺言の内容を実現することが客観的に絶対不可能であることを要しない。
大審院判決(昭和18年3月19日)の判示によれば、抵触とは「前ノ遺言ノ執行が不能ト為ルガ如キ場合ノミ二止マラズ、諸般ノ事情ヨリ観察シテ後ノ行為が前ノ遺言ト之ヲ両立セシメザル趣旨ノ下ニ為サレタルコト明白ナル場合モ包含スル」とされている。
この判示は、抵触概念を単なる物理的・法的不可能性を超えて、遺言者の意思の解釈問題として位置づけた画期的なものである。
2.2 抵触判断の具体的方法
抵触するか否か、全部抵触か一部抵触かは、専ら遺言書の全趣旨から判断されねばならない(大審院判決昭和12年7月)。
この判断は、以下の要素を総合的に考慮して行われる:
- 遺言書の文言の客観的意味
- 遺言者の主観的意思の推定
- 遺言作成時の状況と背景事情
- 遺言者と相続人・受遺者との関係性
3. 「抵触する生前行為」の法理論的構造
3.1 遺言方式による意思表示原則の緩和
従来の民法の原則によれば、前の遺言を撤回する遺言をして前の遺言を失効せしめ、ついで生前処分その他の法律行為をすべきであるが、遺言者がいきなり前の遺言と抵触する行為をした場合にも、そこに撤回の効力を擬制した。
この制度設計は、遺言者の実際の行動様式を法的に追認し、形式的な遺言方式の要求を実質的に緩和するものである。
3.2 遺言者の意思に基づく場合の限定
生前処分ないし法律行為が撤回権を有する遺言者自身によってされずに、遺言者の法定代理人による抵触行為や遺言者の債権者による強制競売、目的物収用、他人の不法行為による滅失等は撤回とされない。
ただし、遺言者が生前行為を他人に委任して代理権を授与し、この任意代理人によって生前行為がなされたときは、遺言者自身のなした場合と同視すべきである。
3.3 生前処分の具体的類型
遺贈の目的である特定の権利や物についての生前行為
- 所有物の譲渡、寄附行為
- 特定債権の弁済受領等
- 売買・交換等の債権契約の締結
- 祭祀主宰者の指定(民法第897条)
- その他身分行為、死因贈与等
重要な最高裁判例:終生の扶養を受けることを前提として養子縁組をしたうえ、その所有不動産の大半を養子に遺贈する旨の遺言をした者が、その後養子に対する不信の念を強くしたため、協議離縁をし、法律上も事実上も扶養を受けないことにした場合、その離縁により遺贈は撤回されたものである(最高裁判決昭和56年11月13日民集35巻8号1251頁)。
3.4 「抵触」解釈の発展的理解
基本的には上記大審院判決昭和18年3月19日と同じ解釈が維持されているが、前の遺言を失効させなければそれらの行為が有効となりえないことをいい、たとえば、先に甲に遺贈した不動産を後に乙に贈与する場合などである。
しかし、必ずしも後の行為によって前の遺言が法律上または物理的に全く執行不能となった場合に限られず、後の行為が前の遺言と両立させない趣旨でなされたことが明白であればよい。
したがって、抵触するか否かおよびその範囲は、一方で遺言の解釈の問題であると同時に、他方でそれらの行為の解釈の問題である。要するに、これらの全事情を合理的に判断したうえで決すべきである。
4. 現代的課題と実務上の留意点
4.1 自筆証書遺言保管制度の導入による影響
令和2年7月10日から法務局における自筆証書遺言書保管制度が開始されたことにより、遺言書の撤回に関する実務上の課題にも新たな展開が生じている。
平成31年(2019年)1月13日以降、財産目録をパソコンや代筆でも作成できるようになったことで、遺言書の作成・変更・撤回の実務がより複雑化している。
4.2 包括遺贈と特定遺贈の区別
包括遺贈後、遺贈者がその財産に属する特定の物または権利を生前処分しても、包括遺贈と抵触するものではない。
この原則は、包括遺贈の性質上、遺産全体に対する割合的権利を付与するものであり、個別の財産処分により直ちに遺贈が撤回されるものではないことを明確にしている。
4.3 判例の具体的適用事例
地方裁判所判例ではあるが、「母が、全遺産を長女に遺贈する遺言をした後、二女にも相続分があることを認め、その趣旨で金銭支払の和解をした場合について、和解契約の履行により必ずしも前記遺贈の執行が不能となるわけではないが、本件和解はそれと両立せしめない趣旨でなされたるのと認定して、先の遺贈は撤回された」とする東京地方裁判所判決(昭和53年1月25日)がある。
5. 最新の重要判例と実務への影響
5.1 停止条件付き法律行為と撤回擬制
主務官庁の認可が停止条件となる事例において最高裁は、「遺言による寄附行為に基づく財団法人の設立行為がなされたあとで、遺言者の生前処分の寄附行為に基づく財団設立行為がされて、両者が競合する形式になった場合において、右生前処分が遺言と抵触し、したがって、その遺言が取り消されたものとみなされるためには、少なくとも、まず、右生前処分の寄附行為に基づく財団設立行為が主務官庁の許可によって、その財団が設立され、その効果の生じたことを必要とする」とした(最高裁判決昭和43年12月24日)。
学説は、寄付自体で抵触があったとして反対が多く、筆者もその方が遺言者の意思に近く妥当と解する。
5.2 「相続させる」旨の遺言と撤回擬制
大阪高等裁判所判決(平成2年2月28日)による重要な判示:
- 特定の財産を共同相続人の一人に「相続させる」旨の遺言は、遺言者の意思が明確に遺贈であると解されない限り、遺産分割方法の指定と解するのが相当である。
- 特定の財産を共同相続人の一人に「相続させる」旨の遺言により遺産分割方法の指定がされた場合、右共同相続人が当該財産を取得する意思を表明したときは、右共同相続人は、遺産分割の協議又は審判を経るまでもなく、その所有権を取得する。
- 数筆の土地を共同相続人の一人に相続させる旨分割方法を指定した遺言の後に遺言者がした同土地の合筆及び分筆の登記手続は、右遺言と抵触するものではない。
5.3 遺言の復活に関する判例法理
最高裁判所第一小法廷判決(平成9年11月13日)の画期的判示:
- 遺言者が遺言を撤回する遺言を更に別の遺言をもって撤回した場合において、遺言書の記載に照らし、遺言者の意思が当初の遺言の復活を希望するものであることが明らかなときは、当初の遺言の効力が復活する。
- 遺言者が、甲遺言を乙遺言をもって撤回した後更に乙遺言を無効とし甲遺言を有効とする内容の丙遺言をしたときは、甲遺言の効力が復活する。
この判例は、遺言の復活に関する明文規定がない我が国法において、遺言者の意思解釈を通じて遺言の効力復活を認めた重要な先例である。
6. 実務上の対応策と留意点
6.1 遺言書作成時の注意事項
- 明確な意思表示:抵触や撤回に関する紛争を避けるため、遺言者の意思を明確に記載する。
- 定期的な見直し:生活状況や財産状況の変化に応じて、遺言書の内容を定期的に見直す。
- 専門家への相談:複雑な財産関係や家族関係がある場合は、法律の専門家に相談する。
6.2 生前行為と遺言の整合性確保
遺言書作成後に重要な財産処分を行う場合は、遺言書との整合性を十分検討し、必要に応じて遺言書の変更を検討する。
6.3 証拠保全の重要性
遺言者の真意を明確にするため、遺言書作成時の状況や変更の経緯について、適切な記録を残すことが重要である。
結論
遺言書の撤回擬制に関する法理論は、大審院時代から最高裁判例に至るまで、一貫して遺言者の最終意思の尊重と相続紛争の予防という二つの価値を調和させる方向で発展してきた。
現代社会においては、自筆証書遺言書保管制度の導入や民法改正により、遺言をめぐる実務環境が大きく変化している。これらの変化に対応しつつ、従来の判例法理を適切に運用することが、実務家には求められている。
遺言書の撤回擬制は、単なる技術的な法的構成ではなく、人間の意思の変遷と家族関係の複雑性を法的に調整する重要な制度である。その運用にあたっては、法的な正確性と人間的な温かさを両立させる視点が不可欠である。
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