はじめに - 超高齢化社会における遺言の現実
近年の裁判例を見ると、自筆証書遺言はもちろんのこと、公正証書遺言であってさえも高齢者の遺言でトラブルが続出しているという深刻な現実があります。元検事や裁判官といった法曹経験者が就任している公証人が関わっているにもかかわらず、なぜ遺言能力を欠いた遺言書や、遺言事項に該当しない内容の遺言書が作成されてしまうのでしょうか。
この背景には、超高齢化社会の進展により、相続に関わる関係者(不動産業者、銀行職員、介護事業者など)が増加していることも一因として考えられます。相続の専門家として1000件を超える相続相談を解決してきた経験から、遺言の基本である遺言能力、高齢者の遺言に関する判例傾向、そして遺言できる事項について、哲学的・法学的視点も交えながら再確認していきましょう。
1.遺言制度の本質的理解
遺言の法的性質
遺言は、法律学的には、民法が認める「人の最終意思について死後に効力を発生させる制度」として位置づけられています。この制度は、個人の自律的意思を尊重するという近代法の基本原理に基づいており、人格権の究極的な発現とも言えるでしょう。
その人の意思に法が効力を認めるためには、当然のことながら「意思能力」が必要です。これが「遺言能力」と呼ばれるものです。また、相手方のない単独行為に法が一定の効力を認めるため、「遺言事項の法定」が厳格になされています。
さらに、紛争を避けるために「遺言の方式」が法定されており、死後に効力が発生する性質上、生前には「遺言撤回の自由」が保障されています。
ただし、「遺言内容と異なる遺産分割」が相続人全員の合意により可能であることや、一定範囲の相続人には遺産の一定割合が認められる「遺留分制度」があることで、遺言者の意思も一定の制限を受けていることに十分注意する必要があります。
2.遺言利用の急激な増加と社会背景
近年の遺言利用実態を統計的に見ると、その急激な増加は驚くべき数字を示しています。
家庭裁判所での遺言検認申立件数の推移
家庭裁判所の遺言検認申立件数は、2021年(令和3年)に19,576件を記録しました。これは1995年(平成7年)の8,065件と比較すると、実に2.4倍以上の増加となっています。この数字は、自筆証書遺言を作成する方々が激増していることを物語っています。
公正証書遺言の作成件数
公正証書遺言についても増加傾向にあり、2021年は106,028件でした。2013年頃から年間10万件前後で推移しており、社会の高齢化とともに安定した需要があることが分かります。
信託銀行での遺言書保管と法務局制度
信託銀行の遺言書保管件数も、2012年に7万件以上となっています。さらに注目すべきは、法務局での自筆証書遺言保管制度の利用状況で、制度開始から3年超が経過した2023年11月時点で、累計63,830件の自筆証書遺言が実際に保管されたことです。
令和2年7月の制度開始以降、月間1000件から2000件ほどのペースで利用されており、年間約2万件の利用が見込まれています。当職も数件の案件でこの制度に関与した経験がありますが、利用者の安心感は相当なものです。
3.高齢者の遺言能力 - 判断基準と最新判例の動向
遺言能力の法的定義
遺言能力とは、遺言内容を理解し、遺言の結果を弁識するに足りる意思能力のことです。民法に明確な定義規定はありませんが、死後に効力が発生する特性上、行為者の保護を目的とした行為能力制度の適用はありません(民法962条)。
民法の関連条文を確認すると:
第961条 十五歳に達した者は、遺言をすることができる。
第963条 遺言者は、遺言をする時においてその能力を有しなければならない。
このように、実際に遺言をする時点で遺言能力が必要となります。
特殊な規定の哲学的背景
注目すべきは、未成年者であっても15歳以上であれば単独で遺言を行うことができ、被保佐人、被補助人も保佐人、補助人の同意を要せずに遺言を行うことができる点です(962条)。これは、遺言が人格の最終的表現であり、他者の介入を排除すべき極めて個人的な行為であるという法哲学的思想に基づいています。
成年被後見人の遺言については、成年後見人の同意は不要ですが、当然に意思能力は必要です。そのため、成年被後見人が事理を弁識する能力を一時回復した時に、医師2人以上の立会いのもと、特別な手続きを経る必要があります(973条)。
遺言能力有無の判断が困難な理由
遺言能力の有無を調べることで、無効になったというのは裁判でも一番多いケースとなっており、遺言時に本当に遺言能力があったのかの争いは非常に多く発生しています。稀に公正証書遺言でもこうした争いが生じるのが現実です。
その理由は、遺言内容との関係で個別的かつ相対的に判断するしかなく、判定基準は総合的にならざるを得ないからです。
有効性判断の4つのポイント
最新の判例研究や実務経験を踏まえると、以下の4つのポイントが重要です:
①遺言者の精神状態
遺言作成時における認知症の程度、精神障害の有無、薬物の影響等を総合的に判断します。
②遺言内容と作成の経緯
遺言内容の複雑さ、従前の意思表示との整合性、作成に至る経緯の自然性等を検討します。
③遺言内容の複雑性
遺言能力を肯定した裁判例は、遺言内容が「概括的」ないし「単純」であることを考慮して、その程度の内容については遺言者は理解していたとして遺言能力を認めている一方で、否定例では「遺言内容がかなり詳細で多岐にわたる」こと、内容が「単純でない」こと、遺言内容が「重大な結果」をもたらすものであることが重視されています。
④医師の診断書等の客観的証拠
診療録、看護記録、主治医の意見書等の医学的証拠が決定的な役割を果たすことが多くあります。
この判断基準については、立命館法学「高齢者の遺言能力」(鹿野菜穂子、1996年5号)の論考が示唆に富んでおり、実務上も参考にされています。
4.遺言事項の法定 - 何が遺言で定められるのか
遺言によって法的効果が発生する事項は、法律によって厳格に限定されています。これは、死後に効力を発生させる制度の重要性と、紛争防止の観点から設けられた制限です。
民法に規定される遺言事項
身分関係に関する事項
- 寄付行為(41条2項)
- 認知(781条2項)
- 後見人指定(839条1項)
- 後見監督人指定(848条)
- 廃除(893条)
- 廃除の取消し(894条2項)
相続・承継に関する事項
- 祭祀承継者の指定(897条1項)
- 相続分の指定・指定の委託(902条)
- 特別受益の持戻免除(903条3項)
- 遺産分割方法の指定・指定の委託(908条)
- 遺産分割の禁止(908条)
- 共同相続人間の担保責任の指定(914条)
遺贈・遺言執行に関する事項
- 遺贈(964条)
- 受遺者が負担付遺贈を放棄した場合の指示(1002条2項)
- 負担付遺贈の目的物が価格減少した場合の指示(1003条)
- 遺言執行者の指定・指定の委託(1006条)
- 遺贈の減殺方法の指定(1034条)
民法以外の法律による遺言事項
商法関係
- 保険金受取人の指定・変更(商法675条・676条)
信託法関係
- 信託設定(信託法2条)
これらの事項以外は、遺言書に記載されていても法的効力を持たない「付言事項」として扱われます。ただし、付言事項も遺言者の想いを伝える重要な意味を持つことは言うまでもありません。
5.公正証書遺言が無効となる具体的ケース
公正証書遺言の信頼性とその限界
公正証書遺言は、公証役場で、法の専門家である公証人が、その権限に基づいて作成する文書であり、無効になる具体的な数値は導き出せませんが、その確率は非常に低いものとされています。
しかし、公正証書遺言を無効にすることは、難しいのは、中立公正と思われている公証人が関わっているからであり、公証人はその遺言者に遺言能力があると思ったからこそ、当該公正証書遺言を作成するからでもありますが、それでも無効となるケースは存在します。
実務上の問題点
公証人は、遺言作成日に遺言者と会って遺言の趣旨を口授させて筆記することはほとんどなく、事前に弁護士などがFAX送信した遺言の原稿をもとに、遺言書をパソコンで打っておくという現実があります。
実際の作成当日は、公証人が遺言者に氏名や住所を聞き、簡単な会話を交わした後、パソコンで作成した遺言書を読み聞かせ、各条項ごとに同意を確認して署名押印させるという流れが一般的です。
6.超高齢化社会における遺言制度の課題と展望
社会的背景の変化
現代日本の超高齢化社会では、平均寿命の延伸により、遺言作成から相続発生まで長期間が経過するケースが増加しています。この間に認知機能が変化する可能性もあり、遺言作成時の能力判定がより重要となっています。
専門家の役割の重要性
このような状況下では、相続の専門家による適切なアドバイスとサポートがこれまで以上に重要になっています。単に法的知識だけでなく、医学、心理学、社会学等の学際的知識を統合した総合的なアプローチが求められています。
予防的観点からの提言
遺言をめぐる紛争を予防するためには、以下の点が重要です:
- 早期の専門相談: 判断能力が十分な段階での相談
- 定期的な見直し: 状況変化に応じた遺言内容の更新
- 適切な記録保持: 遺言作成時の状況についての客観的記録
- 家族間コミュニケーション: 可能な範囲での事前の意思疎通
まとめ - 確実な遺言のために
公正証書遺言といえども無効となるリスクは完全にゼロではありません。特に超高齢化社会において、遺言能力をめぐる争いは今後も増加することが予想されます。
重要なことは、遺言制度の本質を理解し、適切な時期に、適切な方法で、適切な内容の遺言を作成することです。そのためには、相続の専門家による総合的なサポートが不可欠です。
当オフィスでは、これまで1000件を超える相続相談を通じて蓄積した経験と、法学・哲学・自然科学にわたる学際的知見を活かし、お一人お一人の状況に最適な遺言作成をサポートしています。
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