はじめに

2020年2月、鉄鋼業界の巨人、日本製鉄グループの中核企業である日鉄ソリューションズ(NSSOL)が、過去数年間にわたり総額429億円もの売上高を水増ししていたという衝撃的な事実が公表されました。この事件は、単なる一企業の不祥事にとどまらず、日本の産業界全体におけるコーポレートガバナンス、リスクマネジメント、そして何よりも企業倫理のあり方について、改めて重い問いを投げかけました。本稿では、このNSSOL架空取引事件を多角的に分析し、表面的な対策に留まらない、本質的な再発防止策と企業が持つべき姿勢について、中川総合法務オフィスの視点から深く考察します。

事件の概要:429億円の売上水増しとその背景

報道によれば、NSSOLは2015年3月期から2019年4~9月期にかけて、IT機器に関する29件の取引において、実際には最終的な需要者(エンドユーザー)が存在しない架空の取引を行い、連結売上高で429億円を過大に計上していました。

この架空取引は、東証一部上場のシステム開発会社ネットワンシステムズなどが主導的な役割を担い、NSSOLの他、東芝子会社の東芝ITサービス、富士電機子会社の富士電機ITソリューション、リース会社のみずほ東芝リースなど、複数の企業を巻き込んだ「架空循環取引」の様相を呈していました。NSSOLの当時の森田社長は記者会見でこの事実を公表し、謝罪しました。特筆すべきは、NSSOLの営業担当者自身は、取引の実在性がないことを認識しておらず、いわば「巻き込まれた」形であったと説明された点です。

明らかになった架空循環取引の実態:調査報告書より

事件発覚後、NSSOLは弁護士と公認会計士からなる特別調査委員会を設置し、調査を実施。その結果は「調査報告書」として公表されました(※現在はリンク切れの可能性があります)。

報告書では、問題となった取引について「実在性が認められず、かつ、それらの各取引はエンドユーザーが存在しない状態で当社を含む複数の会社が介在する形で複数回にわたって循環を繰り返す一連の商流の一部を構成しており、いわゆる架空循環取引と認められた」と結論づけています。また、この取引は特定の取引先(報告書ではA社と記載)の営業担当者が主導したものであったと指摘されています。

なぜ長期間発覚しなかったのか?報告書が指摘する要因

これほど大規模な架空取引が、国税庁の指摘が入るまで長年にわたり社内で見過ごされてきた理由について、報告書は以下の点を挙げています。

  1. 情報の秘匿性: 「秘匿性の高い取引先向けの案件」と説明され、詳細な検証が困難であった。
  2. 取引先の信用: 過去に取引実績があり、定期的な与信調査でも問題がないと判断された取引先との取引であった。
  3. 形式的書類の具備: 社内規程やシステム上、必要とされる契約書や納品書などの証憑類は形式上整っていた。
  4. 利益の確保: 取引において、一定程度の粗利が確保されているように見えた。
  5. 正常な入出金: 取引に関する代金の決済や入金は、見かけ上は期日通りに行われていた。

これらの要因が複合的に作用し、不正を見抜くための内部統制システムが機能しなかった、あるいは欺かれた可能性を示唆しています。

NSSOLが提示した再発防止策とその課題

調査報告書では、再発防止策として以下の項目が挙げられました。

  • リスクマネジメントの強化
  • 業務プロセスの見直し
    • 物販取引のリスク管理の見直し
    • 商流取引禁止ルールの運用の厳格化
    • 取引書類作成に関する業務プロセス(印章管理等)の改善
  • モニタリングその他の改善策
    • 商流調査の見直し
    • 内部監査の高度化
    • 棚卸資産管理規程の見直し
  • 社公事業部における総括部の牽制機能及び営業の規範意識を高める施策
    • 総括部の機能・役割の明確化
    • 業務プロセスのルールとしての文書化・明確化
    • 営業担当に対する教育・研修の徹底

抽象的な対策項目:具体性に欠ける懸念

これらの再発防止策は、多岐にわたる項目を網羅的に挙げてはいるものの、その多くが「強化」「見直し」「厳格化」「高度化」「明確化」「徹底」といった抽象的な表現にとどまっています。具体的に「何を」「どのように」変えるのか、その実効性については、このリストだけでは判断が難しいと言わざるを得ません。特に、NSSOL自身が「営業担当者は実在性のない取引の認識はなかった」と説明している点を踏まえると、「営業担当に対する教育・研修の徹底」が具体的にどのような内容で、どのように規範意識を高めるのか、明確な道筋が示されるべきでしょう。

【中川総合法務オフィス 考察】表層的な対策を超えて:本質的なコンプライアンス・リスク管理の必要性

中川総合法務オフィスでは、このNSSOLの事例を単なる「架空循環取引に巻き込まれた被害者」として捉えるのではなく、より深く、構造的な問題として分析する必要があると考えています。企業の社会的責任、特に株主をはじめとするステークホルダーに対する説明責任という観点から、以下の点を指摘します。

被害者意識からの脱却:株主への裏切りという視点

報告書や報道からは、NSSOLがある種「騙された」被害者であるかのようなニュアンスも感じられます。しかし、上場企業が長期間にわたり巨額の売上を水増ししていたという事実は、紛れもなく投資家の判断を誤らせ、市場の公正性を害する重大な不祥事です。最大のステークホルダーである株主に対する裏切り行為であり、その責任は極めて重いと言えます。再発防止策を検討する上では、この「加害者」としての側面、すなわち自社の内部統制やリスク管理体制に重大な欠陥があったという事実を主体的に認識することが不可欠です。

「コンプライアンス」の不在?形式的な対策への疑問

驚くべきことに、公表された再発防止策の項目には、「コンプライアンス」という言葉が直接的には見当たりません。これは、NSSOLが今回の事件を、コンプライアンス体制そのものの問題とは捉えていない、あるいはそのように外部に表明することを避けたかった、という可能性を示唆します。しかし、法令遵守はもちろんのこと、企業倫理や社会規範を含む広義のコンプライアンスの観点から見れば、これほど大規模な不正が長期間見過ごされたこと自体が、組織的なコンプライアンス意識の欠如、あるいは機能不全の証左ではないでしょうか。真のコンプライアンスとは、ルールやマニュアルの整備といった形式的な側面だけでなく、組織全体に浸透した倫理観や価値観、そしてそれを支える企業文化そのものです。

ステークホルダー視点の欠如が招く再発リスク

企業不祥事を分析し、再発防止策を講じる際には、株主、従業員、顧客、取引先、地域社会といった多様なステークホルダーへの影響を考慮することが極めて重要です。今回のNSSOLの再発防止策が、内部の業務プロセス改善に偏重し、ステークホルダーへの影響や対話といった視点が希薄に見える点は懸念材料です。目先の対策を網羅的に列挙するだけでは、根本的な原因にメスを入れることにはならず、問題が形を変えて再び現れるリスクを排除できません。

研修・教育の具体化と組織文化の醸成

「教育・研修の徹底」は多くの不祥事後の対策で謳われますが、その実効性が問われます。単にルールを教え込むだけでなく、「なぜ、そのようなルールが必要なのか」「不正が起きた場合にどのような影響があるのか」といった本質的な理解を促し、倫理的なジレンマに直面した際に、従業員一人ひとりが適切に判断・行動できるような思考力と価値観を養う必要があります。これには、経営トップからの強いメッセージと、それを体現する組織文化の醸成が不可欠です。哲学や思想といった人文科学的な知見も動員し、人間の本性や組織の力学を踏まえた上で、倫理観を育むアプローチが求められます。

漱石に学ぶ「形を変えて現れる」不祥事の本質

文豪・夏目漱石は、その作品の中で、問題が解決したように見えても、その本質が変わらない限り、形を変えて別の形で現れることがある、という人間の営みの本質を描いています。企業不祥事も同様です。表面的な原因を取り除き、対症療法的な再発防止策を講じただけでは、根本的な解決には至りません。組織の構造、企業文化、従業員の意識といった深層にある問題に対峙し、変革に取り組まなければ、類似の、あるいは全く異なる形の不祥事が再び起こる可能性は否定できないのです。このNSSOLの事例も、単に取引のチェック体制を強化するだけでなく、なぜそのような取引が見過ごされる組織風土があったのか、という根源的な問いに向き合うことが、真の再発防止への道筋となるでしょう。

まとめ:企業が取るべき教訓と未来への視座

日鉄ソリューションズの架空取引事件は、たとえ意図せず巻き込まれた側面があったとしても、企業がその規模や社会的影響力に相応しい高度なリスク管理体制と、揺るぎないコンプライアンス意識を持つことの重要性を改めて浮き彫りにしました。

企業が取るべき教訓は、以下の点に集約されるでしょう。

  1. 主体的なリスク認識: 被害者意識に陥ることなく、自社の管理体制の不備を認め、主体的に改善に取り組む。
  2. 実質的なコンプライアンス: 形式的なルール遵守を超え、倫理観に根ざした組織文化を醸成する。
  3. ステークホルダー重視: 株主をはじめとする全てのステークホルダーへの影響を考慮し、透明性の高い経営を行う。
  4. 具体的で実効性のある対策: 抽象的なスローガンではなく、現場レベルで機能する具体的な再発防止策を策定・実行する。
  5. 継続的な改善: 一度対策を講じたら終わりではなく、社会情勢や事業環境の変化に合わせて、常に見直しと改善を続ける。
  6. 現代のコンプライアンスで必須の心理的安全性の組織浸透と生成AIによるリスク管理の活用

今日の企業経営は、法律や経営学といった社会科学の知識だけでは乗り越えられない複雑な課題に満ちています。時には、哲学や歴史といった人文科学、あるいはシステム思考のような自然科学的な視点も取り入れながら、物事の本質を見抜く深い洞察力が求められます。中川総合法務オフィスは、こうした多角的な視座から、企業が持続的に成長し、社会からの信頼を得るためのコンプライアンス・リスクマネジメント体制の構築を支援してまいります。


(補足)著者紹介

中川総合法務オフィス 代表 中川

法律、経営、リスクマネジメント、コンプライアンス分野における深い専門知識に加え、哲学、歴史、思想といった人文科学、さらには自然科学の領域にも及ぶ広範な知見を有する。長年の実務経験と学際的な視点を融合させ、企業が直面する複雑な課題に対し、本質的かつ実践的な解決策を提示する。その鋭い分析力と啓蒙的な語り口には定評があり、多くの企業経営者や担当者から信頼を得ている。机上の空論ではない、生きた知恵としてのコンプライアンス・ガバナンスの重要性を説き続けている。

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