近年、組織論において「心理的安全性」という概念が注目を集めている。この理論は、単なる快適な職場環境の構築を目指すものではなく、組織の生産性向上とコンプライアンス体制の強化という、より本質的な目標を達成するための重要な基盤となる。本稿では、ハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・C・エドモンドソン教授が提唱した心理的安全性理論を基軸に、コンプライアンス専門家としての実務経験を踏まえて、組織における心理的安全性の真の価値と実践的な構築手法について考察する。

心理的安全性の本質と「4つの不安」の除去

エドモンドソン教授は、心理的安全性を低下させる要因として「4つの不安」(無知と思われる不安・無能と思われる不安・邪魔と思われる不安・ネガティブと思われる不安)をあげている。これらの不安が組織内に存在する場合、メンバーは上司や同僚に対して意見を述べることや、意見を述べることに伴うリスクを取る行動を回避するようになる。

第一の「無知だと思われる不安」と第二の「無能だと思われる不安」は、知識や能力の不足を指摘されることへの恐れである。「そんなことも知らないのか」「そんなこともできないのか」という批判を受けることを恐れ、メンバーは積極的な発言や行動を控えるようになる。

第三の「邪魔していると思われる不安」は、自分の発言や行動が組織の円滑な運営を阻害するのではないかという懸念である。組織において意図的か否かにかかわらず、他のメンバーの迷惑になることを恐れる心理が働く。

第四の「ネガティブだと思われる不安」は、反対意見や批判的な意見を述べることで、消極的や否定的な人物として組織内で評価されることへの不安である。

これらの不安は、スペースシャトル・コロンビア号の事故のような重大な事故の背景にある組織的な問題と密接に関連している。コロンビア号事故では、技術者が機体の脆弱性について懸念を表明しようとしたにもかかわらず、組織内の心理的安全性の欠如により、その重要な情報が適切に上層部に伝達されなかったことが事故の一因となった。

心理的安全性とコンプライアンスの相関関係

コンプライアンスの面でも、罰と不安で支配された環境では従業員は"余計なことを言わない"ようになり、結果、マネジャーや経営陣に必要な情報は集まらなくなる。これは、組織におけるコンプライアンス体制の根幹を揺るがす深刻な問題である。

心理的安全性が低い組織では、メンバーが不正行為や規則違反を発見しても、それを報告することをためらう傾向が強い。上下関係の厳しい組織やトップダウン式の権威主義的な組織においては、特にこの傾向が顕著に現れる。

日本の戦前の軍隊組織は、この典型的な例である。「失敗の本質」で分析されているように、属人性の理論が支配し、「誰かがそう言ったらもう誰も反論できない」という組織文化が蔓延していた。このような組織では、組織の無責任体制が形成され、結果として重大な戦略的失敗を招いた。

現代の企業組織においても、同様の問題が発生している。横領や不正会計などの不祥事が発生した際、それを個人の問題として処理することで組織的な改善を怠る企業が多い。しかし、クレッシーの不正のトライアングル理論(機会・動機・正当化)に基づく分析を行えば、不正行為は個人の資質だけでなく、組織的な要因によって引き起こされることが明らかである。

目標設定と役割分担の重要性

心理的安全性を高めることは、組織を「ぬるま湯」状態にすることではない。エドモンドソン教授は、心理的安全性を高めた後に組織の生産性を維持・向上させるために、明確な目標設定と適切な役割分担、そして継続的なフィードバックの重要性を強調している。

上司は明確な目標を設定し、各メンバーに対して具体的な役割を分担する必要がある。その上で、それぞれのメンバーの仕事ぶりに対して建設的なフィードバックを継続的に提供することが不可欠である。このプロセスを通じて、組織のメンバーは目標に対する自分の貢献を明確に理解し、より高い生産性を発揮することができる。

営業成績や販売実績のような数値化しやすい業務については、フィードバックは比較的容易である。一方、総務やバックオフィスなどの間接部門については、評価指標の設定がより困難であるが、コミュニケーション回数、改善提案数、自主的な業務改善の実績など、工夫次第で数値化可能な指標を設定することができる。

トヨタ生産方式に見る組織的問題解決アプローチ

トヨタ生産方式における「アンドン」システムは、心理的安全性の実践的な応用例として注目に値する。トヨタでは、生産ラインで問題が発生した際、作業者が躊躇なくラインを停止し、チーム全体で問題解決に取り組む文化が確立されている。これは、個人の失敗を個人の責任として処理するのではなく、組織全体の改善機会として捉える発想に基づいている。

例えば、ある部署で発注ミスが発生した場合、その責任を個人に帰するのではなく、発注プロセスにおける二重チェック体制の不備、発注先との詳細な確認手順の欠如、担当者の孤立化など、組織的な要因を分析し、システム全体を改善する。このアプローチにより、同様のミスの再発防止と組織全体の学習が促進される。

相談型リーダーシップの実践

現代の組織運営においては、指示命令型のリーダーシップから相談型リーダーシップへの転換が不可欠である。これは、スポーツの指導現場でも同様の変化が起きていることと軌を一にしている。

甲子園などの高校野球においても、従来の体罰や恫喝に依存した指導法から、選手との対話を重視した指導法への転換が進んでいる。問題を起こしている指導者の多くは、依然として権威主義的な指導法に固執している傾向がある。

企業組織においても、現代の価値観と若手従業員の価値観に適合した相談型のマネジメントスタイルが求められている。上司は部下に対して一方的に指示を出すのではなく、部下の意見を聞き、一緒に問題解決策を考える姿勢を示すことが重要である。

雑談とコミュニケーションの価値

心理的安全性が向上すると、組織内でのコミュニケーションが活発化し、雑談を通じて各メンバーの個人的な背景や特技、専門知識などが共有されるようになる。例えば、ドイツ留学の経験があるメンバーがいることが雑談で判明すれば、ドイツ関連のプロジェクトでその知識を活用することができる。

従来、このような情報交換は飲み会などの非公式な場で行われることが多かった。「腹を割って話す」という表現に象徴されるように、アルコールの力を借りてメンバー同士がオープンに語り合う機会が存在していた。しかし、コロナ禍とリモートワークの普及により、このような非公式なコミュニケーションの機会が大幅に減少している。

このような状況下で、心理的安全性の向上は、公式な場においても非公式なコミュニケーションと同様の効果を生み出す重要な役割を果たしている。組織として意図的に心理的安全性を高める取り組みを行うことで、メンバー間の相互理解と信頼関係の構築を促進することができる。

カント哲学に基づく倫理的義務論の適用

心理的安全性とコンプライアンスの関係を哲学的に考察すると、イマヌエル・カントの義務論的倫理学に基づく理解が有効である。カントの仮言命題と定言命題の区別は、コンプライアンス体制の構築において重要な示唆を提供する。

仮言命題的なアプローチでは、「コンプライアンス違反が発覚しなければ問題ない」「隠蔽すれば処罰を免れる」という発想が生まれる。これに対して、定言命題的なアプローチでは、コンプライアンス違反そのものが発生しない組織文化の構築を目指す。

真の意味でのコンプライアンス体制とは、外部からの監視や処罰の恐れがなくても、組織のメンバーが自発的に適切な行動を取る状態である。これは、カントの言う「道徳法則」に従った行動、すなわち義務から生じる行動と本質的に同じである。

心理的安全性の向上は、この倫理的義務論を組織レベルで実践するための基盤となる。メンバーが恐れや不安に駆られることなく、自らの良心に従って行動できる環境を整備することで、真のコンプライアンス文化を醸成することができる。

3年間のコンサルティング期間の必要性

組織の風土改善とコンプライアンス環境の整備には、最低でも3年間の継続的な取り組みが必要である。これは、組織文化の変革が表面的な制度変更だけでは達成できず、メンバーの意識と行動様式の根本的な変化を要するためである。

実際には、組織文化の完全な変革には10年程度の期間が必要とされる。しかし、段階的なアプローチにより、3年間で実質的な改善効果を実現することは可能である。第1年目は現状の問題点の把握と基本的な制度整備、第2年目は制度の定着と継続的な改善、第3年目は自立的な運営体制の確立を目標とする。

このような長期的な取り組みを実施している組織では、重大なコンプライアンス問題の発生率が大幅に低下し、組織全体の生産性と従業員満足度の向上が実現されている。短期的な研修や一時的な制度変更では達成できない、持続可能な組織改革の実現には、専門的な知識と経験に基づく長期的なコンサルティングが不可欠である。

結論:真の心理的安全性に基づく組織づくり

心理的安全性の向上は、組織の生産性向上とコンプライアンス体制の強化という二つの重要な目標を同時に達成するための基盤となる。しかし、その実現には、表面的な制度変更や一時的な研修では不十分であり、組織文化の根本的な変革が必要である。

エドモンドソン教授の理論に基づく「4つの不安」の除去、明確な目標設定と役割分担、継続的なフィードバック、相談型リーダーシップの実践、そしてカント哲学に基づく倫理的義務論の適用など、多面的なアプローチが求められる。

現代の複雑化したビジネス環境においては、トップダウン的な権威主義的経営では限界がある。メンバーの創造性と主体性を最大限に引き出し、組織全体の学習能力を向上させる心理的安全性の高い組織こそが、持続可能な成長とコンプライアンス体制の両立を実現する鍵となる。

真の意味での心理的安全性の構築は、単なる人事制度の問題ではなく、哲学的な洞察と実務的な経験、そして長期的な視点に基づく組織経営の本質的な課題である。この課題に真摯に取り組む組織のみが、現代社会における持続可能な発展を実現することができるのである。


中川総合法務オフィスへのコンプライアンス研修・コンサルティングのご依頼について

本稿で論じた心理的安全性とコンプライアンスの統合的アプローチの実現には、深い専門知識と豊富な実務経験が不可欠です。中川総合法務オフィスの代表・中川恒信は、これまで850回を超えるコンプライアンス研修を担当し、不祥事を起こした組織のコンプライアンス態勢再構築の豊富な経験を有しております。

現在も内部通報の外部窓口を担当し、マスコミから不祥事企業の再発防止策についてしばしば意見を求められるなど、コンプライアンス分野における第一線の専門家として活動しております。法律や経営の社会科学的知見のみならず、哲学思想などの人文科学、自然科学にも深い造詣を持ち、組織の本質的な問題解決に向けた多角的なアプローチを提供いたします。

真の意味での組織改革を実現するためには、表面的な制度変更ではなく、組織文化の根本的な変革が必要です。そのためには最低3年間の継続的な取り組みが不可欠であり、当オフィスではこのような長期的視点に基づくコンサルティングサービスを提供しております。

コンプライアンス研修・コンサルティングの費用は1回30万円となっております。貴社の持続可能な発展と真のコンプライアンス文化の醸成に向けて、ぜひ当オフィスの専門的サポートをご活用ください。

お問い合わせ方法

皆様の組織における心理的安全性の向上とコンプライアンス体制の強化に向けて、専門的かつ実践的なソリューションを提供させていただきます。

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