はじめに:市場の公正性と企業倫理の根幹を揺るがすインサイダー取引

インサイダー取引は、金融商品市場の信頼を著しく損なう行為であり、法によって厳しく規制されています。しかしながら、企業が強固なコンプライアンス体制を構築し、役職員に対するリスク管理と倫理教育を徹底しない限り、残念ながらその事例は後を絶ちません。この問題は、単に法律違反というだけでなく、企業倫理や社会的責任のあり方そのものが問われる深刻な課題と言えるでしょう。経済活動の根底には、人と人との信頼関係があり、その信頼を裏切る行為は、短期的な利益を得たとしても、長期的には計り知れない損失をもたらします。

【事例研究】スミダコーポレーション元社外取締役のインサイダー取引事件

具体的な事例として、車載用コイル製造などを手掛けるスミダコーポレーションの事件(2018年発覚)は、私たちに多くの教訓を与えています。同社の元社外取締役が、未公表の内部情報(2016年12月期の配当金予想に関する情報)を利用して同社株を不正に取引し、逮捕されました。この人物は、情報入手後、株価上昇を予期し、公表前に知人名義で約8万株、約8800万円分を買い付けていたのです。

スミダコーポレーションは、コーポレートガバナンスの強化を掲げ、早期から社外取締役を積極的に活用していました。しかし、この事件は、社外取締役を含む役員の不正に対するコンプライアンス体制が十分に機能していなかった可能性を示唆しています。企業統治における「形」だけでなく、「魂」を伴った運用がいかに重要であるか、改めて浮き彫りになったと言えるでしょう。ガバナンス体制の構築は、単に制度を導入するだけでなく、それが組織の隅々にまで浸透し、実効性を持つものでなければなりません。

監視の目と市場の警鐘:インサイダー取引は必ず露見する

金融庁の証券取引等監視委員会(SESC)や日本取引所自主規制法人は、インサイダー取引に対して常に厳しい監視の目を光らせています。関係者は「インサイダー取引は必ず摘発できる」と断言しており、その言葉は市場参加者にとって重い警鐘となっています。実際に、高度な分析技術や情報収集網により、不公正な取引を発見する能力は年々向上しています。

市場の公正性を歪めるインサイダー取引のリスクは、決して軽視できません。選挙のたびに政治家の不透明な株式取引が報道されることがありますが、このような行為は社会全体の信頼を損なうものであり、断じて許されるべきではありません。

参考情報:

  • 日本取引所グループ(JPX):インサイダー取引規制について
  • 金融庁:インサイダー取引規制に関するQ&A
    • https://www.fsa.go.jp/news/r5/shouken/20231208/231208insider_qa_.pdfhttps://www.fsa.go.jp/sesc/kouen/kouenkai/20190304-1.pdf など)

【重要判例解説】インサイダー取引とリスク管理における取締役の善管注意義務(日本経済新聞社事件 東京地判平21.10.22)

インサイダー取引に関するコンプライアンス体制の重要性を具体的に示した実務上極めて重要な判例として、「日本経済新聞社事件」があります。この判例は、企業の取締役が負うべきリスク管理体制構築義務、いわゆる善管注意義務の射程を明らかにする上で、示唆に富む内容となっています。

(1) 判旨の核心:取締役が果たすべきリスク管理体制構築義務

株式会社の取締役は、その会社の事業規模や特性に応じ、従業員による不正行為(インサイダー取引を含む)のリスクを正確に把握し、これを適切に管理する体制を構築する善管注意義務を負います。さらに、その職責と必要性の範囲において、個別リスクの発生を未然に防ぐための指導監督義務も負うとされました。これは、取締役の責任が、単に経営判断の是非に留まらず、組織内部の不正リスクに対する実効的な予防策を講じることにまで及ぶことを明確にした点で画期的と言えます。

(2) 事案の概要:報道機関におけるインサイダー取引と株主代表訴訟

日本経済新聞社の従業員が、法定公告に関する未公表情報を利用してインサイダー取引を行い、刑事責任を問われました。これに対し、同社の株主が、当時の取締役9名に対し、従業員のインサイダー取引を防止する任務を怠った(善管注意義務違反)として、損害賠償を求めた株主代表訴訟です。原告は、この不正行為により会社の社会的信用が失墜し、ブランド価値が毀損されたと主張しました。

(3) 判決の要点:求められる具体的な防止策と経営判断の尊重

裁判所は、日本経済新聞社が報道機関という性質上、従業員がインサイダー情報に接する機会が多いことを認定しつつ、会社が当時講じていた以下のインサイダー取引防止施策を評価しました。

  • 就業規則等による包括的な規制と周知徹底:
    • 全社的な「インサイダー取引規制に関する規定」の制定(平成元年)。
    • 従業員の高い倫理観と法令遵守義務の明記。
    • 職務上知り得た重要情報の漏洩や、公表前の関連株券等の売買禁止。
    • 違反時の懲戒処分規定と社内報での解説。
    • 広告局内規「広告局インサイダー取引規制関連規約」の制定(平成元年)。
    • 取締役に対する別途のインサイダー取引防止申し合わせ(平成元年)。
  • 適時適切な注意喚起と教育研修:
    • 子会社上場に伴う注意喚起文書の作成・配布(平成14年)。
    • 取引先広告代理店でのインサイダー事件(ADEX事件)発覚後の迅速な対応(平成17年)。
      • 取締役会・経営会議での対応策検討。
      • 広告局員への法令遵守の注意喚起・教育の徹底が最重要との判断。
      • 会議での繰り返し指示、広告局内規の改定と周知(イントラネット掲載、小冊子配布)。
      • 弁護士を講師とした「インサイダー取引と企業のコンプライアンス」研修の実施。
      • ADEX事件の原因説明と更なる防止の訴え。

これらの事実を踏まえ、裁判所は、「会社が、その有する多種多様な情報について、どのような管理体制を構築すべきかについては、当該会社の事業内容、情報の性質・内容・秘匿性、業務の在り方、人的・物的態勢など諸般の事情を考慮して、その合理的な裁量に委ねられている」 と判示し、日本経済新聞社が当時とっていた情報管理体制は、一般的にみて合理的な管理体制であった と結論付け、取締役の善管注意義務違反を否定しました。

この判決は、企業がその事業特性やリスクの性質に応じて、実効性のある内部統制システムを構築・運用していれば、結果として不正が発生したとしても、直ちに取締役の責任が問われるわけではないことを示しています。しかし、それは同時に、漫然とした体制や形式的な運用では不十分であり、常にリスクを評価し、予防策をアップデートしていく不断の努力が求められる ことを意味します。この「合理的な裁量」の範囲は、社会情勢の変化や新たな手口の出現によっても変動しうるため、企業は常に最新の知見に基づいた対策を講じる必要があります。

金融商品取引法におけるインサイダー取引規制の骨子(令和5年4月1日現在)

インサイダー取引は、金融商品取引法第166条(会社関係者の禁止行為)および第167条(公開買付者等関係者の禁止行為)によって厳しく規制されています。その内容は複雑多岐にわたりますが、ここでは特に重要なポイントを概説します。

(1) 会社関係者の禁止行為(第166条)

  • 対象者(会社関係者):
    • 上場会社等の役職員、会計参与、代理人、使用人その他従業者
    • 帳簿閲覧権等を有する株主
    • 法令に基づく権限を有する者(例:監督官庁の職員)
    • 契約締結者・交渉者(例:取引先、M&Aアドバイザー)
    • 上記から情報を受領した者(第一次情報受領者)も規制対象となります(第166条第3項)。
  • 重要事実: 投資者の投資判断に著しい影響を及ぼす可能性のある未公表の会社情報。具体的には、株式発行、資本減少、業務提携、新技術の企業化、災害による損害、業績予想の大幅な修正などが列挙されています(詳細は法第166条第2項各号参照)。「バスケット条項」と呼ばれる包括的な規定(第166条第2項第4号など)もあり、列挙されていなくても投資判断に著しい影響を与える事実は規制対象となり得ます。
  • 禁止行為: 重要事実が公表された後でなければ、当該上場会社等の特定有価証券等の売買等をしてはなりません。
  • 適用除外: 新株予約権の行使や、事前に締結・公表された計画に基づく取引など、一定の場合は適用除外となります(第166条第6項)。

(2) 公開買付者等関係者の禁止行為(第167条)

公開買付け等の実施または中止に関する未公表の事実を知った関係者は、その事実が公表されるまでは、関連する株券等の買付け等または売付け等を行ってはならないとされています。

(3) 法規制のポイント:なぜインサイダー取引は厳しく禁じられるのか

金融商品取引法がインサイダー取引を厳しく禁じるのは、それが**「市場の公正性・健全性」** と 「投資家の信頼」 を根底から揺るがす行為だからです。一部の者だけが未公表の重要情報を利用して利益を得たり損失を回避したりできるとすれば、一般の投資家は不公平な条件下で取引を強いられることになり、市場そのものへの参加意欲を失いかねません。これは、健全な資本市場の育成という国民経済的観点からも極めて由々しき事態です。

したがって、企業は法規制を遵守するだけでなく、その精神を理解し、役職員一人ひとりが高い倫理観を持って行動する企業文化を醸成することが不可欠です。そこには、法学的な知識のみならず、経済学的な市場メカニズムの理解、さらには人間行動や組織心理に対する深い洞察が求められます。

【提言】真のコンプライアンス経営と企業価値向上に向けて

インサイダー取引の防止は、単なる法令遵守を超えた、企業価値の維持・向上に直結する経営課題です。中川総合法務オフィスの代表、中川恒信は、これまで850回を超えるコンプライアンス・ハラスメント防止等の研修講師を務め、数多くの企業のコンプライアンス態勢構築支援や、不祥事発生後の組織再生コンサルティングに携わってまいりました。また、現に複数の企業の内部通報外部窓口を担当し、マスコミからも不祥事企業の再発防止策について頻繁に意見を求められるなど、理論と実践の両面から企業コンプライアンスの最前線に立ち続けています。

中川の豊富な経験と、法律や経営といった社会科学の枠を超え、哲学思想などの人文科学、さらには自然科学にまで及ぶ深い知見は、複雑化する現代社会における企業リスクの本質を見抜き、表層的ではない真の解決策を導き出す上で不可欠なものです。

私たちは、インサイダー取引を含むあらゆるコンプライアンス違反のリスクを低減し、企業が持続的に成長するための揺るぎない基盤を構築するために、以下の視点が重要であると考えます。

  1. 経営トップの揺るぎないコミットメントと率先垂範: コンプライアンスは経営の最重要課題であるという明確なメッセージを発信し続けること。
  2. 実効性のある内部統制システムの構築と運用: 形式ではなく、組織の規模や事業特性に応じた、実質的なリスク管理体制を整備すること。これには、内部通報制度の活性化や、独立した監査部門の機能強化も含まれます。
  3. 継続的な教育・研修による意識の浸透: 全役職員に対し、インサイダー取引のリスク、関連法規、そして企業倫理の重要性を繰り返し教育し、知識だけでなく「自分ごと」として捉える意識を醸成すること。
  4. 情報管理体制の徹底: 重要情報へのアクセス制限、秘密保持義務の徹底、情報伝達ルールの明確化など、物理的・技術的・人的側面からの情報管理を強化すること。
  5. インシデント発生時の迅速かつ適切な対応体制の確立: 万が一、不正の疑いや事実が発覚した場合に、迅速な調査、事実解明、適切な是正措置、そして透明性の高い情報開示を行える体制を整備しておくこと。

これらの取り組みは、一朝一夕に成し遂げられるものではありません。しかし、企業が社会からの信頼を得て永続的に発展していくためには、避けて通れない道です。


中川総合法務オフィスは、貴社のコンプライアンス経営を強力にサポートします。

インサイダー取引防止策の構築、役職員研修、内部通報制度の設計・運用、コンプライアンス体制の診断・改善提案など、貴社の状況に合わせた最適なソリューションをご提供いたします。

中川総合法務オフィスの代表、中川恒信は、

  • 850回を超えるコンプライアンス・ハラスメント防止等の研修実績
  • 不祥事を起こした組織のコンプライアンス態勢再構築に関する豊富な経験
  • 現に複数の企業の内部通報外部窓口を担当し、生の声に接する実践力
  • マスコミからしばしば不祥事企業の再発防止に関する意見を求められる高い専門性と社会的信頼

これらの実績と経験に基づき、貴社の企業価値向上に貢献いたします。

コンプライアンス研修やコンサルティングの費用は、1回30万円(税別・交通費別途) から承っております。具体的な内容やご要望に応じて柔軟に対応させていただきます。

まずはお気軽にご相談ください。

お問い合わせ: 中川総合法務オフィス 電話:075-955-0307 ウェブサイト相談フォーム: https://compliance21.com/ contact/

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