医療機関におけるコンプライアンス研修の現場で取り扱った事例を基に、ハラスメント問題の重要性について解説いたします。近年、医療業界においても働き方改革が適用され、労働環境への意識が高まる中、コンプライアンスの徹底は不可欠となっています。特に、総合病院や大学病院、そしてがんセンターのような高度な医療を提供する機関においては、その重要性は一層増しています。
今回ご紹介するのは、関東地方のある県のがんセンターで実際に起こった麻酔科医に関する事案です。この事例を通して、医療現場におけるハラスメントの実態、法的責任、そしてコンプライアンス上の課題について深く掘り下げていきましょう。裁判年月日:2014年5月21日(東京高)、原審は千葉地裁2013年12/11
1.事案の概要:意見具申から始まった麻酔科医へのハラスメント
事案の経緯は以下の通りです。
あるがんセンターに勤務する麻酔科医が、歯科医師向けの研修方法について、上司である部長を通さずにセンター長に直接意見を伝えました。これを知った部長は、当該麻酔科医を麻酔の担当から外してしまいます。これにより、麻酔科医は専門的な業務に従事できなくなり、結果として退職を余儀なくされました。
この事態に対し、麻酔科医は病院に対し損害賠償請求訴訟を提起しました。
2.裁判所の判断:ハラスメントと慰謝料請求の認定
この裁判は、地方裁判所、そして東京高等裁判所においても審理され、平成26年5月に判決が下されました。両裁判所ともに、麻酔科医の慰謝料請求を認める判断を下しています。
ただし、注目すべきは、その法的構成です。医療行為そのものに関する過誤(医療ミス)については、民法上の不法行為責任(使用者責任を含む)が適用されますが、今回の事案のように、組織運営上の問題については、公的な病院であるがんセンターの特性を考慮し、国家賠償法が適用されると判断されました。国家賠償法は、国や地方公共団体の公務員が職務を行うにあたって、故意または過失によって他人に損害を与えた場合に、その損害を賠償する責任を定めるものです。
3.コンプライアンス上の問題点:ハラスメント、内部通報、そして心理的安全性
この事例からは、医療現場におけるコンプライアンス上の重要な問題点がいくつか浮かび上がってきます。
(1)ハラスメント(パワーハラスメント)
今回の事案は、労働施策総合推進法(通称:パワハラ防止法)に定められるパワーハラスメントに該当する可能性が高いと言えます。同法は、事業主に対し、職場におけるパワーハラスメントを防止するための措置を講じることを義務付けています。
パワーハラスメントの定義としては、一般的に以下の3つの要素を満たすものが該当するとされています。
- 優越的な関係を背景とした言動であること: 部長という職位は、人事権限を持つ優越的な立場にあると言えます。
- 業務上必要かつ相当な範囲を超えたものであること: 研修方法に関する意見具申に対し、担当業務を剥奪するという措置は、業務指導の範囲を逸脱している可能性があります。
- 労働者の就業環境が害されるものであること: 専門的な業務から外されることは、麻酔科医のキャリア形成を阻害し、精神的な苦痛を与えるものであり、就業環境を著しく悪化させるものです。
国家公務員の場合は地方公務員と違い、労働施策総合推進法の直接の適用はありませんが、人事院規則等においてハラスメント防止に関する規定が設けられています。また、ハラスメントに該当する行為は、人格の尊厳を侵害し、苦痛を与えるものであり、いかなる組織においても許されるものではありません。
(2) 内部通報制度の機能不全
この事例では、麻酔科医が部長を通さずにセンター長に直接意見を伝えたことが、結果として不利益な扱いを受ける原因となりました。これは、組織内の内部通報制度が十分に機能していなかった可能性を示唆しています。
内部通報制度は、組織内の不正行為や問題点を早期に発見し、是正するための重要な仕組みです。通報者が安心して情報提供できる環境を整備することが不可欠であり、通報者を不利益な扱いから保護する措置(公益通報者保護法など)が求められます。今回の事例では、意見を述べた麻酔科医が報復的な人事措置を受けた可能性があり、内部通報制度の改善が課題と言えるでしょう。
(3) 心理的安全性(Psychological Safety)の欠如
この事案の背景には、職場における心理的安全性の欠如が見られます。心理的安全性とは、組織やチームの中で、自分の意見や疑問、失敗などを恐れることなく安心して発言できる状態を指します。
麻酔科医が部長に意見を言えなかった、あるいは言わずにセンター長に直接伝えたという行動は、部長に対して何らかの懸念や恐れを抱いていた可能性を示唆しています。心理的安全性の低い職場では、従業員は意見や提案を控えるようになり、結果として組織全体の活性化や問題解決の遅れにつながる可能性があります。医療現場においては、患者の安全に関わる重要な情報が共有されないリスクも高まります。
4.組織におけるコンプライアンス向上のために
今回の事例は、医療機関におけるハラスメント問題の深刻さと、コンプライアンス体制の重要性を改めて認識させてくれます。組織としてコンプライアンスを向上させるためには、以下の点に取り組む必要があります。
- ハラスメント防止研修の実施: 役職者を含む全従業員に対し、ハラスメントに関する正しい知識や対応方法を習得するための研修を定期的に実施することが重要です。
- 内部通報制度の整備と周知: 従業員が安心して不正や問題点を報告できるような、実効性のある内部通報制度を整備し、その存在と利用方法を周知徹底する必要があります。通報者の保護を確実に行うための仕組みも不可欠です。
- 心理的安全性の醸成: 上司と部下の間のオープンなコミュニケーションを促進し、従業員が安心して意見や提案を発言できるような、心理的に安全な職場環境づくりに取り組む必要があります。
- 管理職の意識改革: 管理職は、自らの言動が部下に与える影響を十分に理解し、ハラスメント防止に率先して取り組むとともに、部下の意見や提案に耳を傾ける姿勢が求められます。
- 専門家への相談: コンプライアンスに関する問題が発生した場合や、体制整備に不安がある場合は、弁護士などの専門家に相談し、適切なアドバイスやサポートを受けることが重要です。
まとめ
今回の事例を通して、医療現場におけるハラスメントは、被害者である従業員に精神的な苦痛を与えるだけでなく、組織全体の信頼を損ない、医療サービスの質の低下にもつながりかねない深刻な問題であることがご理解いただけたかと思います。
中川総合法務オフィスでは、医療機関をはじめとする様々な組織に対し、コンプライアンス体制の構築やハラスメント防止対策の支援を行っております。今回の事例を踏まえ、皆様の組織におけるコンプライアンス体制の見直しや改善にご協力できれば幸いです。