はじめに――あのコートに戻れない日のことを、今も時々考える

私はバレーボールで全日本高校選抜に選ばれた経験を持つ。進学校での文武両道を貫き、「スーパースター」などと呼ばれた時期もある。強化合宿で感じたのは、コートの中のルールと、コートの外の「組織のルール」は全く別物だという事実だ。どんなに技術があっても、組織のガバナンスが崩れていれば選手は守られない。指導者の暴言が「愛のムチ」として黙認され、不透明な選考で代表から外れた仲間を、私は何人も見た。あの悔しさと理不尽さは、30年経った今も鮮明である。

建設業・IT業・地方公共団体など多様な現場で850回を超えるコンプライアンス研修を重ねてきた経験を、今こそスポーツ界の「組織運営の適正化」にスライドさせる時だと確信している。法律は変わった。制度は整いつつある。あとは「動くかどうか」だけだ。


第1章 なぜ「今」なのか――2025年改正スポーツ基本法が変えたもの

1-1 法改正の全体像

2025年6月13日、スポーツ基本法は制定から14年にして初めての大幅改正が参議院本会議で可決・成立した(令和7年法律第71号)。政令により同年9月1日から施行された。

改正により、スポーツ団体のガバナンス強化や、公的資金の適切な使途、暴力への対応等が求められるようになった。

スポーツ団体の実務を最も直撃するのが、第三章第四節として新設・整備された「スポーツの公正及び公平の確保等」(第29条〜第29条の5)である。

1-2 第29条〜第29条の5の構造

条文見出しスポーツ団体への影響
第29条暴力等の防止ハラスメント防止の努力義務
第29条の2競技の不正操作等の防止八百長・不正行為根絶の連携義務
第29条の3ドーピング防止活動の推進JADA等との連携強化
第29条の4紛争の迅速かつ適正な解決JSAA仲裁利用の努力義務
第29条の5組織運営の状況についての報告等ガバナンスコード遵守・公表の努力義務

第29条の5第2項は、スポーツ庁長官が定める「スポーツ団体の適正な運営に関する指針」(ガバナンスコード)に基づき、団体が自ら遵守基準を策定し、講じた措置を公表するという「コンプライアンス・レポーティング」の仕組みを努力義務として規定した。

旧法では「ドーピング防止」と「紛争解決」の2条しか存在しなかった「スポーツの公正確保」規定が、5条に大幅拡充された。これは、全柔連不祥事・日大アメフト部問題・各競技連盟のハラスメント事案が積み重なった末の「立法的応答」に他ならない。

1-3 第5条(旧法の理念)との関係

旧来のスポーツ基本法第5条は、スポーツ団体の努力義務として「運営の透明性確保」「自ら遵守すべき基準の作成」「紛争の迅速かつ適正な解決」を定めていた。2025年改正では、これらの理念的規定が第29条以降の具体的義務条項として肉付けされた。「努力義務」という言葉に惑わされてはならない。ガバナンスコード未対応による加盟資格停止リスクが存在し、JSPO等からの是正勧告を受ける蓋然性がある。


第2章 スポーツ庁ガバナンスコードとは何か

スポーツ庁は、スポーツ基本法の理念を実現するため、スポーツ団体の適正な組織運営の原則・規範として「スポーツ団体ガバナンスコード」を策定した(令和元年。令和5年改定)。対象別に2種類が存在する。

区分対象原則数手法
中央競技団体向け(NF向け)JSPO・JOC・JPSA加盟の中央競技団体13原則コンプライ・オア・エクスプレイン
一般スポーツ団体向けNFに該当しない全スポーツ団体6原則自己説明・公表

第3章 中央競技団体向けガバナンスコード(13原則)の逐条解説

原則1 中長期基本計画の策定・公表

組織のミッション・ビジョン・戦略を定めた中長期計画、人材育成計画、財務健全性確保計画の策定と公表が求められる。「毎年同じ体制で惰性で運営する」という旧来の慣行は、もはや通用しない。

現場リスク事例: 計画なき予算執行が続いたある競技連盟では、役員の交際費が経年で膨らみ、外部監査で補助金の不適切支出が発覚した。計画・実績の比較管理(PDCAサイクル)があれば早期発見できた案件である。


原則2 役員体制の整備(多様性・実効性・新陳代謝)

数値目標として明示されている要件:

  • 外部理事の目標割合:25%以上
  • 女性理事の目標割合:40%以上(令和4年度現在26.5%にとどまる)
  • 理事の最大在任期間:10年以内
  • 就任時年齢制限の設定
  • 役員候補者選考委員会の独立設置

外部理事の割合は、ガバナンスコード策定前(平成30年度)の12.6%から令和4年度には29.2%へ上昇した。数字は改善しているが、「外部理事」に競技実績者が含まれるケースも多く、真の多様性確保には程遠い団体も少なくない。もっとも、10年は明らかに長すぎるが。

「俺の時代はああだったから今もそれでいい」という論理が通じる時代は終わった。特定の長老が10年・20年にわたって権力を握り続けた団体が、どういう末路をたどったか。スポーツ界の不祥事クロニクルを振り返れば、答えは明白だ。


原則3 必要な規程の整備

法令遵守規程・業務分掌規程・経理規程・個人情報保護規程・代表選手選考規程・審判員選考規程など、組織運営に必要な規程一式の整備が求められる。

現場リスク事例: 「監督が決める」という慣行のみで代表選考を行っていた団体が、選考から漏れた選手の提訴によりJSAA(日本スポーツ仲裁機構)の仲裁で選考決定を取り消された事例がある(JSAA-AP-2018-001等)。選考基準の明文化と手続の透明化は、訴訟リスク回避の基本中の基本である。


原則4 コンプライアンス委員会の設置

弁護士・公認会計士・学識経験者等の有識者(うち女性1名以上)を含むコンプライアンス委員会の設置と、理事会への定期報告が必要である。

強調しておきたいこと: コンプライアンス委員会は「置いた」だけでは意味がない。定期開催、権限の明確化、理事会への勧告機能――これらがセットでなければ「飾り」に過ぎない。建設業界でのコンプライアンス体制構築支援の経験からも、「形式的設置」が最も危険なパターンだと断言できる。


原則5 コンプライアンス教育の実施

対象は役職員・選手・指導者・審判員の4類型。単なる「読み合わせ研修」ではなく、不祥事の発生メカニズム(「不正のトライアングル」=動機・機会・正当化)を理解させ、自分ごととして捉えさせるアクティブラーニング型の教育が求められる。

IT業界での研修経験を例に挙げると、情報漏洩リスクを「自分には関係ない」と思っている社員が、具体的なケーススタディに直面することで初めて危機感を持つ。スポーツ指導現場でのハラスメント研修も同じ構造だ。「自分の指導は体罰ではない」という思い込みを解体するには、判例と具体事例が不可欠である。


原則6 法務・会計体制の構築

弁護士・税理士・公認会計士等の専門家が日常的に相談できる体制の整備、公正な会計原則の遵守、国庫補助金の適正使用が求められる。

現場リスク事例: 補助金の目的外使用は補助金適正化法違反となり、返還請求にとどまらず刑事責任(詐欺罪・背任罪)に発展する。「競技団体の会計は内輪の話」という意識が、組織を崩壊させる。


原則7 適切な情報開示

財務情報の法定開示に加え、選手選考基準・ガバナンスコード遵守状況・利益相反ポリシー・懲罰処分結果等の主体的開示が求められる。ウェブサイトでの公開が基本となる。


原則8 利益相反の適切な管理

役職員・選手・指導者等とNFの間に生じ得る利益相反の管理と、「利益相反ポリシー」の策定が必要。スポンサー契約・用品契約・委託契約等において、理事が当事者となるケースに特に注意が必要だ。


原則9 通報制度の構築

  • 通報窓口の周知
  • 担当者への守秘義務
  • 通報者への不利益取扱いの禁止
  • 弁護士等有識者を中心とした運用体制(外部窓口の設置が望ましい)

現場リスク事例: ハラスメントを受けた選手が「チームに居づらくなる」という恐怖から通報を躊躇し、問題が長期化したケースは枚挙にいとまがない。外部の弁護士が窓口を担う「外部通報窓口」があれば、このハードルを大幅に下げられる。


原則10 懲罰制度の構築

禁止行為・処分対象・処分内容・手続を規程で明確化し、中立性・専門性を有する者(弁護士等)が処分審査を行う体制が求められる。「身内による身内の審査」は制度の信頼性を根本から損なう。


原則11 スポーツ仲裁(JSAA)への対応

日本スポーツ仲裁機構(JSAA)によるスポーツ仲裁を利用できるよう、「自動応諾条項」を定めることが求められる。対象は懲罰処分だけでなく、代表選手選考を含むNFの全ての決定に及ぶ。


原則12 危機管理・不祥事対応体制の構築

有事の危機管理マニュアルの事前策定、不祥事発生時の外部調査委員会(独立性・中立性・専門性を有する弁護士等で構成)の設置体制が求められる。

断言する。 不祥事が起きてから「どうしよう」と慌てる団体は必ず傷口を広げる。2023年の防衛省談合事件、2024年のNTT西日本情報漏洩事件――スポーツ以外の世界でも、「初動の誤り」が組織を滅ぼす事例を何度も見てきた。平時の準備が全てだ。


原則13 地方組織等への指導・助言・支援

都道府県協会・学生連盟等の地方組織に対し、ガバナンス確保・コンプライアンス強化の指導、研修資料の提供、法人格取得への支援等が求められる。NFは「上位団体」として地方組織の不祥事リスクにも連帯責任を負う構造にある。


第4章 一般スポーツ団体向けガバナンスコード(6原則)の解説

NF(中央競技団体)に該当しない、いわゆる「一般スポーツ団体」――都道府県協会・市区町村クラブ・大学体育会・高校運動部の上部団体・プロスポーツチームの運営法人等――を対象とする。

原則1 法令等に基づく適切な団体・事業運営

法人格を有する団体は適用法令(一般社団法人法・NPO法等)を遵守し、法人格のない団体は団体としての実体(多数決原理・代表決定方法・財産の分別管理)を備えることが求められる。公的助成を受ける団体は「可能な限り早期に法人格取得に取り組む」ことが明示されている。


原則2 基本方針の策定・公表

組織のミッション・ビジョン等の基本方針を策定・公表すること。規模の大きな団体では中長期計画・財務計画も求められる。


原則3 暴力行為の根絶等に向けたコンプライアンス意識の徹底

役職員・指導者・競技者に対するコンプライアンス教育の実施または研修参加の促進が求められる。

重要な視点: 高校・大学の運動部は、指導者と選手の権力関係が最も非対称な現場の一つだ。「根性」「厳しさ」という名の下に人権侵害が横行してきた歴史がある。教育機関のスポーツ部門こそ、組織的なコンプライアンス教育が急務である。


原則4 公正かつ適切な会計処理

財務・経理の適切処理、補助金等の適正使用、複数人によるチェック体制・経理担当と監査担当の分離が求められる。


原則5 情報開示と透明性確保

法定開示の履行に加え、役職員選任情報・選手選考規程・会計処理状況等の積極的開示が求められる。ウェブサイトのない団体は上部団体のサイトを活用することも可。


原則6 NFと同等の高いガバナンスが求められると判断する場合

社会的影響力が大きい一般スポーツ団体は、NF向けガバナンスコードの個別規定(通報制度・懲罰制度等)についても自己説明・公表を行うことが求められる。

実務的含意: プロスポーツチームの運営法人や、複数の競技種目を統括する総合型地域スポーツクラブは、この「高いガバナンスが求められる」に該当すると自己評価すべきケースが多い。


第5章 スポーツ界が直面する「不祥事クロニクル」と法的リスク

5-1 ハラスメント問題

指導者による身体的暴力・パワーハラスメント・セクシャルハラスメントは、刑事罰(暴行・傷害・強制わいせつ等)、民事損害賠償、組織への社会的批判という三重のリスクを生む。2023年以降も体育系部活動でのハラスメント事案が相次いで報道されている。「長年の慣行」は法的免責の根拠には一切ならない。

5-2 不正経理・補助金の不適切使用

スポーツ団体に支出される国庫補助金・都道府県助成金の不正流用は、補助金等適正化法違反・業務上横領罪・詐欺罪の対象となる。「預かった公金」という意識の欠如が、組織を刑事事件に巻き込む。

5-3 不透明な選手・審判選考

選考基準の不明確さ・恣意的な選考プロセスは、JSAAへの仲裁申立、民事訴訟のリスクを生む。選考決定の取消判断が出た場合、当該大会への選手派遣が差し止められ、団体の国際的信頼も失墜する。

5-4 ガバナンスコード不対応による加盟資格リスク

ガバナンスコード未対応の団体は、加盟資格の停止・取消しを受ける可能性がある。今改正により、この運用の法的根拠がより強固になった。公表義務を怠った場合、JSPO等から是正勧告を受ける蓋然性が高い。


第6章 ガバナンスコードへの実務対応ロードマップ

Step 1 【現状把握】セルフチェックリストで自団体の対応状況を可視化
       ↓
Step 2 【規程整備】法令遵守・選考・懲罰・通報・利益相反等の規程を策定
       ↓
Step 3 【体制構築】コンプライアンス委員会・通報窓口・危機管理体制を整備
       ↓
Step 4 【研修実施】役職員・選手・指導者・審判員向けのコンプライアンス研修
       ↓
Step 5 【情報開示】ウェブサイト等でガバナンスコードの遵守状況を公表
       ↓
Step 6 【PDCA】年1回の自己説明・公表サイクルを制度化

第7章 中川総合法務オフィスにできること

バレーボール全日本高校選抜として強化合宿を経験した私には、スポーツ現場の「当たり前」が時として法的には「アウト」であることを、身をもって知っている。建設業界・IT業界・地方公共団体等で積み上げてきた850回超のコンプライアンス研修実績は、「現場が動く研修」を設計するための財産だ。

スポーツ界は今、歴史的な転換点にある。法律が変わった。ガバナンスコードが整備された。あとは、現場のリーダーが動くかどうかだ。


おわりに――組織を守るのは、あなたの「決断」だ

あの強化合宿で感じた「組織の理不尽さ」を、次の世代に引き継がせてはならない。ルールを守ることは選手を守ることだ。ガバナンスを構築することは、組織の未来を守ることだ。コンプライアンスは「コスト」ではなく「投資」である。

参考:スポーツ庁公式情報
スポーツ界の透明性・公平性向上に関する施策は、スポーツ庁ウェブサイト(https://www.mext.go.jp/sports/ )にて随時更新されている。ガバナンスコードの最新版・適合性審査結果等も同サイトで公表されているので、必ず最新情報を確認されたい。


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