現代企業にとって、コンプライアンスは単なる「法令遵守」を超え、企業経営そのものと深く結びついた極めて重要な要素となっています。かつての狭義のコンプライアンス概念では捉えきれなかったリスクに対応するため、「コンプライアンス・リスク管理」や「コンダクト・リスク」といった新しい分析概念が登場しました。

この記事では、これらの新しい概念がなぜ必要とされているのか、その定義や背景、そして現代企業がどのように向き合うべきかを、金融庁の考え方や具体的な事例を交えながら深く掘り下げて解説します。経営者、コンプライアンス担当者はもちろん、すべてのビジネスパーソンにとって、持続可能な企業活動を営む上で不可欠な知識となるでしょう。

中川総合法務オフィスの代表が、法律・経営の実務経験に加え、哲学思想や社会科学、さらには自然科学といった幅広い視点から、コンプライアンスの本質とその進化について考察します。

1.変革を迫られるコンプライアンス:金融庁が示した新しい視点

1.1 「コンプライアンス・リスク管理」基本方針の登場背景

コンプライアンスに関する新しい分析概念、特に「コンプライアンス・リスク管理」という考え方が注目されるようになった大きなきっかけの一つは、金融庁が平成30年(2018年)10月に発表した「コンプライアンス・リスク管理に関する検査・監督の考え方と進め方(コンプライアンス・リスク管理基本方針)」です。

この基本方針では、従来の金融機関におけるコンプライアンス管理が、形式的な検査マニュアルのチェックリストに基づく態勢整備に偏りがちであったことが指摘されています。つまり、コンプライアンスが「ルールだから守る」という狭義の法令遵守に留まり、それがビジネスや経営戦略から切り離されて捉えられていたという問題意識があったのです。

1.2 ビジネスと一体化する「コンプライアンス・リスク」

金融庁は、この基本方針の中で、「コンプライアンス・リスクは、ビジネスと不可分一体で、往々にしてビジネスモデル・経営戦略自体に内在する場合が多く、その管理は、まさに経営の根幹をなすものである」と強調しました。

これは、コンプライアンスを単なる法的義務の履行と捉えるのではなく、事業活動そのものに潜むリスクとして認識し、経営戦略やビジネスモデルの設計段階から組み込んで管理していく必要があるという、極めて重要な視点の転換を促すものです。

1.3 スルガ銀行問題を例に考える、狭義のコンプライアンスの限界

狭義のコンプライアンス、すなわち「法令さえ守れば良い」という発想が抱えるリスクは、具体的な事例からも明らかになります。例えば、投資用不動産への不適切な融資が問題となったスルガ銀行のケースです。

この問題の背景には、形式的な法令遵守は満たしているかのように見えつつも、顧客(オーナー)の視点が著しく欠如し、収益目標達成のために不適切な営業が行われていた実態がありました。これは、コンプライアンスが経営目標やビジネス慣行と乖離し、実質的なリスク管理が機能していなかった典型例と言えるでしょう。法令遵守という「建前」と、利益追求という「本音」が分離してしまった結果、企業価値を大きく毀損する事態を招いたのです。

2.見過ごされがちな企業価値毀損リスク:「コンダクト・リスク」

2.1 コンダクト・リスクの定義と「盲点」としての性質

金融庁の基本方針で併せて紹介されたもう一つの重要な概念が「コンダクト・リスク(Conduct Risk)」です。これは、既存のリスク管理の枠組み(例えば、信用リスク、市場リスク、オペレーショナルリスクなど)では捕捉しきれない、いわば「盲点」となりがちなリスクを指します。

法令として明確に規律が整備されていない場合であっても、役職員の行動や企業の慣行が、企業価値を大きく毀損する可能性のあるリスクとして認識されています。

2.2 コンダクト・リスクにつながる行為の類型

コンダクト・リスクは、具体的に以下のような行為や状況から生じうると考えられています。

  • ① 社会規範に悖る行為: 法令違反ではないが、社会通念や倫理に反する行為。
  • ② 商慣習や市場慣行に反する行為: 業界の健全な慣行や市場の公正性を損なう行為。
  • ③ 利用者の視点の欠如した行為: 顧客や消費者の利益、立場を十分に考慮しない一方的な行為。

これらの行為は、結果として以下のような悪影響を引き起こす可能性があります。

  • 利用者保護への悪影響
  • 市場の公正性・透明性への悪影響
  • 金融機関(または企業)自身の風評悪化や信用の失墜

2.3 コンダクト・リスクの具体例(金融分野を中心に)

金融分野においては、以下のような事象がコンダクト・リスクの具体例として挙げられます。

  • 顧客に対する誤解を招く、あるいは不適切な商品説明
  • 顧客の知識や経験、財産状況に合わない金融商品の推奨(ミスマッチング)
  • 利益相反が適切に管理されていない状況での取引
  • 市場操作やインサイダー取引につながる不適切な情報利用
  • 顧客情報の不適切な取り扱い

これらのリスクは、法令違反に直結しない場合でも、顧客からの信頼失墜、規制当局による処分、訴訟リスク、ブランドイメージの低下など、多岐にわたる形で企業に損害をもたらす可能性があります。

3.なぜ今、新しいコンプライアンス概念が必要なのか?

3.1 コンプライアンス概念の進化と広がり

コンプライアンスという言葉は、もともと英語の「compliance」(要求や命令に従うこと)に由来し、企業文脈ではまず「法令遵守」という意味合いで使われ始めました。しかし、経済のグローバル化、企業不祥事の頻発、社会からの企業の責任に対する意識の高まりとともに、その概念は拡大してきました。

現在の広辞苑(第七版)のコンプライアンスの定義として「要求や命令に従うこと。特に企業が法令や社会規範・企業倫理を守ること。法令遵守。」とある。少なくとも、法令等の遵守であって、単なる法令遵守以上の意味があると広く認識されています。これは、コンプライアンスが単なる法務部門の課題ではなく、企業活動全体の基盤となるべきものであるという理解が進んできたことを示しています。

3.2 「法令遵守」だけでは不十分な理由:本質はマネジメントにあり

コンプライアンスを語る上で最も重要でありながら、時に誤解されがちなのが、その本質的な位置づけは「マネジメント(経営)」にあるという点です。特に若い法律専門家の中には、コンプライアンスを憲法や民法、刑法といった「法律」の専門知識の問題としてのみ捉え、その「経営課題」としての側面を見落としてしまう傾向が見られます。

もちろん、法令を遵守することは正義にかなう正しい行為であり、企業活動の前提です。しかし、コンプライアンスが真に機能するためには、それが「お金儲けをする、利益を出す」という企業の根源的な活動と一体として考えられなければなりません。コンプライアンスは、利益追求を制約する「足枷」なのではなく、むしろ持続可能な利益を生み出すための「基盤」であり、リスクを適切に管理しながら事業機会を追求するための「経営戦略」の一部であると捉える必要があります。

3.3 日本社会における「本音と建前」の乖離を超えて

歴史的に見ると、日本社会には「法は法、経営は経営」として、「本音(経営の実態)」と「建前(法律やルール)」が乖離していても仕方ない、という大人の考え方が存在したと言われます。形式的に法律やルールを守っていれば、実態がどうであれ良いとする考え方です。

しかし、このような考え方は、企業不祥事や顧客・社会からの信頼失墜を招く温床となり得ます。新しいコンプライアンスの概念、特にコンプライアンス・リスク管理が目指すのは、この「本音と建前」の乖離をなくし、企業活動の「形」と「中身」が一致することです。形式的な法令遵守だけでなく、経営の実態、従業員の行動、企業文化そのものが、社会規範や倫理に照らして適切であるかどうかが問われるようになっています。形も中身も一緒。

3.4 企業は社会の公器であるという哲学

なぜ、単なる法令遵守を超えた新しいコンプライアンス概念が必要なのでしょうか。その根底には、企業が社会にとってどのような存在であるかという哲学的な問いがあります。

多くの偉大な経営者や思想家が説くように、「企業は社会の公器である」という考え方があります。これは、企業が単に設立者や株主だけのものではなく、社会全体の共有物であり、社会からの承認と支持があって初めて存続しうるという考え方です。人間が「社会的動物」であり、社会の中で他者から存在を認められることで初めて社会的な存在でありうるのと同様に、企業もまた、社会の利害関係者(ステークホルダー)からの支持があってこそ、その存在意義が認められます。

企業が利益を追求することは当然かつ正しい活動です。しかし、その利益追求が可能であるのは、社会がその企業の活動を認め、必要としているからです。社会からの信用や支持を得ているからこそ、企業は社会から「金銭」という形でその対価を受け取ることができるのです。この社会との関係性、すなわち「社会のために存在する」という視点が欠けてしまうと、単なる短期的な利益追求に走り、思わぬところで社会の規範や倫理から外れた行為、すなわち「コンダクト・リスク」を冒し、結果的に長期的な存続を危うくすることになります。

3.5 ステークホルダー理論と企業の社会的責任(CSR)

現代の経営において重要視されるステークホルダー理論も、この考え方を補強します。企業を取り巻く様々な利害関係者(顧客、従業員、株主、取引先、地域社会、政府など)の期待や要請に応えることなしに、企業の持続的な成長はありえません。

コンプライアンス・リスク管理やコンダクト・リスクの概念は、このステークホルダーに対する責任を果たすための実践的な枠組みと言えます。法令遵守はもちろんのこと、倫理的な行動、透明性の高い情報公開、環境への配慮、従業員の働く環境整備など、幅広い側面で社会的責任(CSR)を果たすことが求められており、これら全体が統合されたものが現代のコンプライアンス概念を形成しています。

まとめ:現代ビジネスにおけるコンプライアンスの進化と重要性

金融庁が示した「コンプライアンス・リスク管理」や「コンダクト・リスク」といった新しい概念は、単なる法令遵守の徹底を求めるものではありません。これらは、企業が持続的に発展していくために、ビジネスモデルや経営戦略、そして組織の文化やそこで働く個々人の行動レベルに至るまで、コンプライアンスを統合的に捉え直し、主体的にリスクを管理していくことの重要性を示しています。

コンプライアンスは、もはやコストや足枷ではなく、企業価値を高め、社会からの信頼を獲得し、強固なガバナンスを構築するための戦略的なツールです。経営層がリーダーシップを発揮し、「企業は社会の公器である」という哲学を共有しながら、組織全体でコンプライアンス文化を醸成していくことが、VUCA時代とも呼ばれる不確実性の高い現代において、企業が生き残り、繁栄していくための鍵となります。

中川総合法務オフィスは、法律や経営の専門知識に加え、幅広い学術分野からの知見を融合させることで、企業の皆様が直面する複雑なコンプライアンス課題に対し、多角的かつ本質的な視点から解決策を提供いたします。コンプライアンス体制の構築・強化についてお困りの際は、お気軽にご相談ください。

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