市民から実務家まで役に立つ相続解説

民法第五編相続第七章「遺言」は第960条から始まる。本稿では総則にあたる第960条(遺言の方式)、第961条(遺言能力)、第962条(行為能力規定の不適用)、第963条(遺言能力を要する時期)の4か条を取り上げる。いずれも遺言という制度の土台をなす規定であり、以降の各条文(自筆証書遺言、公正証書遺言等の具体的方式を定める規定群)を読む前提として押さえておく必要がある。


第960条(遺言の方式)

条文原文

第九百六十条 遺言は、この法律に定める方式に従わなければ、することができない。

趣旨・立法背景

遺言は、遺言者の死亡によって初めて効力を生じる法律行為である。効力が生じた時点では遺言者本人はすでに死亡しており、内容について本人に確認を取ることができない。また、遺言者以外の者による偽造や変造、内容の書き換えが行われる危険も常に存在する。

このため民法は、遺言を「要式行為」と位置づけ、法定の方式に従わない意思表示には遺言としての効力を認めないこととした。口頭で相続の希望を伝えただけの場合や、方式を欠いたメモ書きの場合は、内容が遺言者の真意に沿うものであったとしても、法律上の遺言としては扱われない。

第960条は、この要式性の原則を宣言する規定であり、第964条以下で定める普通方式(自筆証書遺言・公正証書遺言・秘密証書遺言)および特別方式(危急時遺言等)のいずれについても、定められた手続を欠けば無効になるという効果を基礎づけている。

用語解説

要式行為 法律が定める一定の方式に従って行わなければ法的効果が生じない法律行為をいう。契約のように当事者の意思表示だけで成立する不要式行為と対比される概念である。

遺言 遺言者の死亡によって効力を生じることを予定した、一定の方式による単独の意思表示をいう。相手方のない単独行為である点に特色がある。

判例・裁判例

自筆証書遺言をめぐっては、全文・日付・氏名の自書と押印という一連の行為がどこまで一体性を要求されるかが争われた事案がある。令和3年1月18日最高裁判所第一小法廷判決は、入院先で全文・日付・氏名を自書した後、退院してから9日後に押印した事案について、原審の判断を破棄して差し戻した。この判決は直接には第968条(自筆証書遺言の方式)の解釈を扱ったものであるが、方式の充足をどこまで厳格に見るかという点で、第960条が掲げる要式性の原則がどのように具体的場面で機能するかを示す裁判例として参考になる。


第961条(遺言能力)

条文原文

第九百六十一条 十五歳に達した者は、遺言をすることができる。

趣旨・立法背景

一般の法律行為については、未成年者が単独で行うと保護者の同意を欠くことを理由に取り消される場合がある(第5条)。しかし遺言は、財産の処分に関する意思表示ではあるものの、契約のように相手方との利害調整を要する行為ではなく、遺言者本人の最終意思をそのまま実現させる性質の行為である。

このため民法は、一般の行為能力制度とは別に、遺言についてのみ独立した基準を設け、満15歳に達した者であれば単独で有効な遺言をすることができるとした。何歳から遺言能力を認めるかは各国の立法例で異なるが、日本法は満15歳という比較的低い年齢を基準としている。

用語解説

遺言能力 単独で有効に遺言をすることができる能力をいう。行為能力とは別の制度であり、年齢基準(満15歳)と、後述する意思能力の両方を満たすことが求められる。

判例・裁判例

満15歳という年齢基準そのものが争われる事案は少ないが、遺言能力の有無が問題となる場面の多くは、高齢者の判断能力低下に関するものである。認知症を発症していた遺言者の遺言能力が争われた事案において、京都地方裁判所平成13年10月10日判決は、痴呆性高齢者であっても自己決定はできる限り尊重されるべきであるという社会的要請と、人の最終意思を尊重するという遺言制度の趣旨を踏まえ、遺言者の症状の程度、遺言に至った経緯、遺言作成時の状況を十分考慮した上で、遺言の内容が単純か複雑かとの相関関係において慎重に判断すべきであるとした。この判断枠組みは、後の裁判例でも踏襲されている。

東京地方裁判所昭和63年4月25日判決(昭和60年(ワ)第6743号)は、遺言者が遺言書作成当時、通常人としての正常な判断力、理解力及び表現力を備え、遺言内容について十分な理解を有していたと認められる場合には、遺言能力としての意思能力に欠けるところはないと判示した。この判決が示す判断基準は、現在の実務でも遺言能力の有無を検討する際の基本的な視点として用いられている。


第962条(行為能力規定の不適用)

条文原文

第九百六十二条 第五条、第九条、第十三条及び第十七条の規定は、遺言については、適用しない。

趣旨・立法背景

第5条は未成年者の法律行為に法定代理人の同意を要求し、第9条は成年被後見人の法律行為を原則として取り消しうるものとし、第13条は被保佐人が一定の重要な行為をするに当たり保佐人の同意を要求し、第17条は家庭裁判所の審判により被補助人に同様の制限を課すことを認めている。これらはいずれも、判断能力に不安のある者を財産的な不利益から保護するための行為能力制度の一部である。

第962条は、これらの行為能力に関する規定を遺言には適用しないと定める。未成年者であっても法定代理人の同意なしに遺言をすることができ、成年被後見人・被保佐人・被補助人であっても、それぞれの保護者の同意を得ずに遺言をすることができる。遺言は遺言者本人の最終意思をそのまま反映させるべき行為であり、第三者の同意を介在させることは制度の趣旨にそぐわないという考え方に基づく。

もっとも、この規定によって行為能力の制限が及ばなくなるのは遺言に限られる。成年被後見人が遺言をする場合には、第973条により、事理を弁識する能力を一時回復した時に、医師2人以上の立会いを要するなど、別途の要件が課されている。

用語解説

行為能力 単独で完全に有効な法律行為をすることができる能力をいう。未成年者、成年被後見人、被保佐人、被補助人は、行為能力が制限された制限行為能力者に分類される。

意思能力 自己の行為の結果を判断することができる精神的能力をいう。行為能力とは別の概念であり、意思能力を欠く状態でされた意思表示は、令和2年4月1日施行の第3条の2により、法律行為として無効とされる。遺言についても、行為能力の制限は及ばないが、意思能力を欠いていれば当該遺言は無効となる。

判例・裁判例

第962条により行為能力の制限が及ばないとされる場面でも、遺言者の意思能力の有無が別途問題となった事案は多い。成年後見開始の審判を受けていた遺言者が公正証書遺言を作成した事案では、公証人や立会いの司法書士が遺言者の受け答えから遺言能力ありと判断していたとしても、医師や介護施設職員の意見を聴取せずにされた当該判断によって、認知症の進行状況等から導かれる意思能力欠如の認定が左右されることはないとした裁判例がある。行為能力の制限が及ばないことと、意思能力を備えていることとは別の問題であることを示す裁判例として参考になる。


第963条(遺言能力を要する時期)

条文原文

第九百六十三条 遺言者は、遺言をする時においてその能力を有しなければならない。

趣旨・立法背景

第963条は、遺言能力を判断すべき基準時を明らかにする規定である。遺言能力が要求されるのは遺言をする時点であり、遺言作成後に遺言者が能力を喪失したとしても、作成時点で能力を備えていた以上、その遺言は無効にならない。逆に、遺言作成時点で意思能力を欠いていた場合には、その後に能力を回復したとしても、当該遺言が遡って有効になることはない。

遺言の効力自体は第985条により遺言者の死亡時に生じるが、能力の有無を判断する基準時は死亡時ではなく、あくまで遺言をした時点である。この基準時の設定により、高齢化に伴い判断能力が変動する遺言者について、どの時点の状態を見て有効性を判断すべきかが明確になる。

用語解説

基準時 ある法律要件の充足を判断する際に基準とすべき時点をいう。第963条における基準時は遺言者が遺言をする時であり、遺言の効力発生時(遺言者の死亡時)とは区別される。

判例・裁判例

遺言能力の判断時期が遺言作成時であることを前提に、複数回にわたり遺言が作成された事案や、長期間の入院・介護を経て症状が進行した事案では、各遺言書が作成されたそれぞれの時点における遺言者の状態を個別に認定した上で、遺言ごとに有効・無効が判断されている。ある裁判例では、遺言作成の約2か月前に実施された改訂長谷川式簡易知能評価スケールの結果が9点であり、その1か月後に認知症と診断された遺言者が作成した公正証書遺言について、医師の意見書や証人尋問の結果から、当該遺言作成時点における遺言能力を欠いていたとして無効と判断された。基準時における個別具体的な事実認定が結論を左右することを示す例である。


以上、第960条から第963条までは、遺言という制度全体を支える総則規定である。次条以下では、普通方式(自筆証書遺言・公正証書遺言・秘密証書遺言)の具体的な要件へと進む。

相続・遺言に関するご相談は、中川総合法務オフィスまでお問い合わせいただきたい。

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