市民から実務家まで役に立つ相続解説
民法第976条から第979条までが、死亡危急時遺言・伝染病隔離者の遺言・在船者の遺言・船舶遭難者の遺言という四つの特別方式を定めるのに対し、第980条から第984条までは、それらに共通する仕上げの規律を置く。誰が署名押印するのか、署名できない者がいたらどうするのか、普通方式のどの規定が持ち込まれるのか、危機を脱した遺言者の遺言はいつまで生きているのか、そして海外にいる日本人はどこで公正証書遺言を作れるのか。この五か条を読み終えて、遺言の方式に関する民法の規定は一区切りとなる。
なお、令和8年6月24日に公布された「民法等の一部を改正する法律」(令和8年法律第45号)により、本稿で扱う五か条のうち第980条・第981条・第982条・第984条が改正されている。施行は公布の日から起算して1年を超えない範囲内において政令で定める日とされ、令和8年8月3日時点でその政令は制定されていない。以下では現行法を軸に解説し、各条ごとに改正後の姿を示す。
第980条(遺言関係者の署名及び押印)
条文原文
第九百八十条 第九百七十七条及び第九百七十八条の場合には、遺言者、筆者、立会人及び証人は、各自遺言書に署名し、印を押さなければならない。
趣旨・立法背景
本条が対象とするのは、第977条の伝染病隔離者の遺言と第978条の在船者の遺言、いわゆる隔絶地遺言の二類型に限られる。第976条の死亡危急時遺言と第979条の船舶遭難者の遺言については、各条文自身が証人の署名押印を要求しているため、本条を重ねて適用する必要がない。
隔絶地遺言は、公証人が関与しないまま、公正証書遺言に近い形で第三者が遺言書を作成する方式である。しかも危急時遺言と異なり、家庭裁判所の確認(第976条第4項、第979条第3項)を経る仕組みが用意されていない。真正を担保する装置が遺言書そのものの体裁しか存在しないため、作成の場に居合わせた者全員に署名押印を求め、誰の関与のもとで書面が成立したのかを書面上に固定する。これが本条の狙いである。
裏を返せば、隔絶地遺言では、署名押印を欠く関与者が一人でもあれば方式違反となり、第981条の付記による救済を受けない限り遺言は無効となる。緩やかな方式を認める代償として、書面の完成度を厳しく求める構造になっている。
用語解説
- 遺言者 遺言をしようとする本人である。隔絶地遺言では、遺言者が自ら筆記する必要はない。
- 筆者 遺言書を現実に書いた者を指す。遺言者本人でもよく、立会人や証人が兼ねてもよく、それ以外の第三者であってもかまわない。ワープロで作成した場合には、入力した者が筆者となる。筆者が誰かは、後日の紛争で書面の成立過程を追跡する手がかりとなるため、署名によって特定される。
- 立会人 第977条では警察官一人、第978条では船長又は事務員一人が立会人となる。公的な立場にある者を関与させ、公証人の代替的な役割を担わせる趣旨である。
- 証人 第977条では一人以上、第978条では二人以上が必要となる。証人と立会人は別個の資格であり、警察官や船長が証人を兼ねることはできない。
- 印を押す 実印である必要はなく、認印で足りる。自筆証書遺言に関する判例は、押印について指印をもって足りるとしており(最高裁判所第一小法廷判決平成元年2月16日民集43巻2号45頁)、この理解は特別方式の押印についても妥当すると解されている。ただし指印は、押印者の死亡後に対照すべき資料を欠くことが多く、後日の争いを招きやすい。
判例・裁判例
署名押印をいつ、どこでしなければならないかについて、最高裁判所第二小法廷判決昭和47年3月17日民集26巻2号249頁が参考になる。死亡危急時遺言の事案であるが、同判決は、筆記者である証人が筆記内容を清書した書面に対する証人の署名捺印が遺言者の面前でされなかった場合について、遺言を有効と認めた。あわせて、危急時遺言の遺言書に遺言をした日付ないし証書の作成日付を記載することは遺言の有効要件ではなく、記載された日付が正確性を欠いても遺言は無効とならないと判示している。
方式の履行を機械的に切り詰めるのではなく、遺言者の真意を確保するという方式規定の目的に照らして判断する姿勢が示されたものであり、隔絶地遺言における署名押印の場所と時期を考えるうえでも指針となる。
令和8年改正の内容
改正後の第980条は次のとおりとなる。見出しも「遺言関係者の署名」に改められる。
第九百八十条 第九百七十七条及び第九百七十八条の場合には、遺言者、筆者、立会人及び証人は、各自遺言書に署名しなければならない。
押印要件が全面的に廃止される。自筆証書遺言(第968条)、秘密証書遺言(第970条第1項)、死亡危急時遺言(第976条第1項)、船舶遭難者遺言(第979条第3項)と歩調を合わせた改正であり、印章を持ち歩く生活習慣が薄れた実情と、押印を欠くことで遺言が無効となる紛争を減らす狙いによる。隔絶地という場面を想定すると、印章が手元にない蓋然性は高く、実益の大きい改正といえる。
第981条(署名又は押印が不能の場合)
条文原文
第九百八十一条 第九百七十七条から第九百七十九条までの場合において、署名又は印を押すことのできない者があるときは、立会人又は証人は、その事由を付記しなければならない。
趣旨・立法背景
本条の対象は、第977条の伝染病隔離者の遺言、第978条の在船者の遺言、第979条の船舶遭難者の遺言である。第976条の死亡危急時遺言が含まれていない点に注意を要する。死亡危急時遺言は病床で作成されることが多く、印章の入手可能性という点では隔絶地遺言と事情が異なる、というのが立法の整理である。
隔絶地や遭難という状況では、印章を所持していないこと、負傷により手が使えないこと、識字に問題があることなど、署名押印を物理的に果たせない事態が生じうる。それを理由に遺言を一律に無効とすれば、方式を緩和して遺言の機会を保障した趣旨が失われる。そこで、署名押印できない事由を立会人又は証人が書面に書き加えることで、方式の欠落を補う道を用意した。
付記は、単に「署名できない」と記すだけでは足りない。誰が、どの行為をなしえず、その原因が何であったかを具体的に記載することで、後日に書面の成立過程を検証できる状態にしておく必要がある。付記をする者は立会人又は証人であり、遺言者自身や筆者が付記しても本条の要件を満たさない。
なお、遺言者本人が署名できない場合も本条の射程に含まれる。公正証書遺言について公証人が付記して署名に代える定め(改正前の第969条第4号ただし書に相当する規律)と発想を共有する仕組みである。
用語解説
- 付記 本文とは別に、事情を書き加える記載を指す。遺言書の末尾に記載するのが通例であり、付記をした立会人又は証人が署名押印して責任の所在を明らかにする。
- 署名することのできない者 文字を書く能力を欠く者に限られず、負傷や病状によって一時的に筆記できない者を含む。
- 印を押すことのできない者 印章を所持していない場合が典型である。前述のとおり指印でも押印として足りると解されるため、指印すら不可能な状態が想定される。
判例・裁判例
本条の付記の要否や記載内容を正面から争った最高裁判所の判例は見当たらない。隔絶地遺言・船舶遭難者遺言の利用件数がきわめて少ないことの反映であり、実務上は、方式規定の目的に照らして遺言者の真意確保に支障がないかを個別に判断するという前掲最高裁判所第二小法廷判決昭和47年3月17日の枠組みが手がかりとなる。
令和8年改正の内容
改正後の第981条は次のとおりとなる。見出しは「署名が不能の場合」に改められる。
第九百八十一条 第九百七十七条から第九百七十九条までの場合において、署名することのできない者があるときは、立会人又は証人は、その事由を付記しなければならない。
押印要件そのものが廃止されるため、押印不能を理由とする付記の規律が姿を消し、署名不能の場合の付記だけが残る。実務的には、署名できない事情の記載が従来以上に注目されることになる。
第982条(普通の方式による遺言の規定の準用)
条文原文
第九百八十二条 第九百六十八条第三項及び第九百七十三条から第九百七十五条までの規定は、第九百七十六条から前条までの規定による遺言について準用する。
趣旨・立法背景
特別方式の遺言は、方式が緩和されているとはいえ、遺言としての基本性格まで変わるわけではない。そこで、普通方式について定められた規律のうち、方式の緩和と両立し、かつ遺言制度の根幹に関わるものを準用する。準用される四つの規定は次のとおりである。
- 第968条第3項(自筆証書中の加除その他の変更) 遺言書の訂正は、遺言者がその場所を指示し、変更した旨を付記して特に署名し、変更の場所に押印しなければ効力を生じない。特別方式の遺言書についても、いったん作成された書面を後から書き換える場合には同じ厳格さが求められる。
- 第973条(成年被後見人の遺言) 成年被後見人が事理を弁識する能力を一時回復した時に遺言をするには、医師二人以上の立会いが必要である。立ち会った医師は、遺言者が遺言時に精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く状態になかった旨を遺言書に付記し、署名押印しなければならない。危急の場面で医師二人以上を確保する困難さは想像に難くないが、法はこの要件を免除していない。
- 第974条(証人及び立会人の欠格事由) 未成年者、推定相続人及び受遺者ならびにこれらの配偶者及び直系血族、公証人の配偶者・四親等内の親族・書記及び使用人は、証人にも立会人にもなれない。特別方式の遺言で最も事故が起きやすいのがこの点である。病室に居合わせた家族をそのまま証人に立てれば、遺言は方式違反となる。
- 第975条(共同遺言の禁止) 二人以上の者が同一の証書で遺言をすることはできない。夫婦がともに遭難したような場面でも、遺言書は別々に作成しなければならない。
準用されないものにも意味がある。第968条第1項の自書要件は準用されず、特別方式の遺言書はワープロで作成してもよい。第970条の秘密証書の方式、第972条の口がきけない者の秘密証書に関する特則も準用されない。
用語解説
- 準用 ある事項について定めた規定を、性質の似た別の事項に、必要な読替えを加えたうえで適用することをいう。条文を繰り返し書く煩雑さを避けるための立法技術である。
- 推定相続人 現時点で相続が開始したとすれば相続人となるべき者を指す(第892条)。配偶者、子、直系尊属、兄弟姉妹が順位に従って該当する。
- 受遺者 遺言によって財産を与えられる者をいう。法人も受遺者となりうる。
判例・裁判例
準用される各規定については、普通方式の遺言をめぐる判例の蓄積がそのまま参照される。
- 加除訂正の方式違反 最高裁判所第二小法廷判決昭和56年12月18日民集35巻9号1337頁は、自筆証書遺言における証書の記載自体からみて明らかな誤記の訂正について、当時の第968条第2項(現行第3項)所定の方式に違背があっても、遺言者の意思を確認するについて支障がない以上、その違背は遺言の効力に影響を及ぼさないと判示した。書損じた文字を抹消して同一又は同趣旨の文字を書き直した事案である。
- 証人欠格者の同席 最高裁判所第一小法廷判決平成13年3月27日判例時報1745号92頁(判例タイムズ1058号105頁)は、遺言公正証書の作成に当たり証人となることができない者が同席していたとしても、その者によって遺言の内容が左右されたり、遺言者が自己の真意に基づいて遺言をすることを妨げられたりするなど特段の事情のない限り、遺言は無効とならないとした。もっとも、これは欠格者が証人として立ち会った場合を救済する判断ではない。証人の頭数に欠格者を数え入れれば、証人の人数要件を満たさず方式違反となる。
- 共同遺言の禁止 最高裁判所第二小法廷判決昭和56年9月11日民集35巻6号1013頁は、同一の証書に二人の遺言が記載されている場合、そのうちの一方に氏名を自書しない方式違背があるときでも、第975条により禁止された共同遺言に当たると判示した。方式を満たしている側の遺言も救われない点に厳しさがある。他方、最高裁判所判決平成5年10月19日家庭裁判月報46巻4号27頁は、1通の証書に二人の遺言が記載されていても、その証書が各人の遺言書の用紙をつづり合わせたもので、両者を容易に切り離すことができるときは、共同遺言に当たらないとした。
令和8年改正の内容
改正後の第982条は、第1項と第2項に分かれる。
第九百八十二条 第九百六十八条第三項、第九百七十三条第一項及び第二項、第九百七十四条並びに第九百七十五条の規定は、第九百七十六条から第九百七十九条まで及び前二条の規定による遺言について準用する。この場合において、第九百七十六条の二の規定による遺言について第九百六十八条第三項の規定を準用するときは、同項中「遺言者が、その場所を指示し、これを変更した旨を付記して特にこれに署名しなければ」とあるのは、「遺言者がその場所を指示し、証人の一人がこれを変更した旨を記載し、又は記録し、かつ、その状況を録音及び録画を同時に行う方法により記録しなければ」と読み替えるものとする。
2 第九百七十三条第一項及び第二項、第九百七十四条並びに第九百七十五条の規定は、第九百七十九条の二の規定による遺言について準用する。この場合において、第九百七十三条第二項中「遺言書に記載し、又は記録して」とあるのは「書面に記載し、又は電磁的記録に記録して」と、第九百七十五条中「証書」とあるのは「第九百七十九条の二第一項各号に規定する方法により記録された電磁的記録」と読み替えるものとする。
改正の背景には、同法により新設される第976条の2(死亡危急時遺言の録音録画方式)と第979条の2(船舶遭難者遺言の録音録画方式)がある。遺言者の口授と証人による記載、遺言者の承認という一連の状況を、録音と録画を同時に行う方法で記録すれば、証人一人以上の立会いで遺言をすることができるという新しい方式である。ウェブ会議による証人の立会いも認められる。
この新方式では遺言が電磁的記録として残るため、紙の証書を前提とした規定をそのまま当てはめられない。そこで、訂正の方式は録音録画による記録に読み替えられ、共同遺言の禁止における「証書」は「電磁的記録」に読み替えられた。第973条の医師による付記も、電磁的記録への記録が認められる。
第973条について、準用の対象が第1項及び第2項に限定された点も改正の一部である。改正後の第973条は第3項に保管証書遺言(法務局が保管する新方式)、第4項に秘密証書遺言に関する規律を置くため、特別方式の遺言には関係しない部分を準用対象から外したものである。
第983条(特別の方式による遺言の効力)
条文原文
第九百八十三条 第九百七十六条から前条までの規定によりした遺言は、遺言者が普通の方式によって遺言をすることができるようになった時から六箇月間生存するときは、その効力を生じない。
趣旨・立法背景
特別方式は、普通方式を用いることができない状況にある者に対して、例外的に簡易な手続を認める制度である。危機が去り、自筆証書遺言や公正証書遺言を作成できる状態に戻ったのであれば、例外を維持する理由は消滅する。そこで、普通方式によって遺言をすることができるようになった時から6か月が経過した時点で、特別方式の遺言は当然に効力を失う。
6か月という猶予は、回復直後に遺言の作り直しを求めるのが酷であることに配慮したものである。この期間内であれば特別方式の遺言はなお有効であり、遺言者がその間に死亡すれば、遺言は効力を生じる。
条文は「その効力を生じない」と書くが、遺言の効力発生時期は遺言者の死亡時である(第985条第1項)。つまり本条は、いったん生じた効力を消滅させるのではなく、効力発生の前提を失わせる規定と理解される。家庭裁判所の確認(第976条第4項、第979条第3項)を得ていた場合でも、確認の審判があるからといって本条の適用を免れるわけではない。
起算点は「普通の方式によって遺言をすることができるようになった時」である。単に生存していることではなく、遺言能力を備え、かつ自筆証書遺言なり公正証書遺言なりを現実に作成しうる状態に戻ったことを要する。意識は回復したが筆記も口授もできない状態が続いているのであれば、起算点は到来していない。この判断は事後的に争われやすく、証拠として診療記録や看護記録が意味を持つ。
用語解説
- 六箇月間生存するとき 起算点から6か月が満了する時点でなお生存していることをいう。期間の計算は初日不算入が原則である(第140条)。
- 普通の方式 自筆証書遺言(第968条)、公正証書遺言(第969条)、秘密証書遺言(第970条)の三種を指す。令和8年改正法の施行後は、保管証書遺言が加わって四種となる。
判例・裁判例
本条の起算点を正面から判断した最高裁判所の判例は見当たらない。死亡危急時遺言は、遺言者がまもなく死亡する事案がほとんどであり、6か月の生存に至る例が少ないためである。実際の紛争は、遺言能力の有無や口授の存否をめぐって起きることが多い。
もっとも、この規定の存在は実務に確実な負荷をかけている。危急時遺言を作成したのち遺言者が持ち直した場合、専門家は、回復の程度を継続的に把握し、普通方式による作り直しを促す責務を負う。作り直しを怠ったまま6か月を経過し、その後に遺言者が死亡すれば、遺言は失効し、法定相続分による遺産分割協議に戻ることになる。
令和8年改正の内容
第983条自体に改正はない。ただし、条文が「第九百七十六条から前条まで」と定めているため、新設される第976条の2(死亡危急時遺言の録音録画方式)と第979条の2(船舶遭難者遺言の録音録画方式)も自動的に本条の対象に取り込まれる。録音録画によって作成された遺言も、遺言者が普通方式を用いられる状態に戻ってから6か月生存すれば失効する。
第984条(外国に在る日本人の遺言の方式)
条文原文
第九百八十四条 日本の領事の駐在する地に在る日本人が公正証書又は秘密証書によって遺言をしようとするときは、公証人の職務は、領事が行う。この場合においては、第九百七十条第一項第四号の規定にかかわらず、遺言者及び証人は、同号の印を押すことを要しない。
趣旨・立法背景
外国に居住する日本人は、日本の公証役場に出頭することが容易ではない。他方で、公正証書遺言や秘密証書遺言は、公証人という国家機関の関与を前提とする方式であり、外国の公証人がこれを代替することはできない。そこで本条は、在外公館に駐在する領事に公証人の職務を行わせることで、在外邦人にも公証人関与型の遺言方式への道を開いた。
本条は「特別の方式」の節に置かれているが、性格はやや異なる。第976条から第983条までが緊急性や隔絶性を要件とする例外方式であるのに対し、本条は、公正証書遺言・秘密証書遺言という普通方式の遺言を、職務を行う主体を差し替えて実施するものである。したがって第983条の6か月ルールは適用されず、遺言者が帰国して何年生存しようと遺言は失効しない。この点は初学者が誤りやすい。
後段の押印免除は、在外邦人が印章を所持していない例が多いことへの配慮である。現地で調達することも現実的ではないため、秘密証書遺言の封紙への押印(第970条第1項第4号)について、遺言者と証人の押印を不要とした。領事自身の押印は免除されていない。
なお、本条の遺言は在外公館で作成され、正本が交付される。公正証書遺言として作成された場合、家庭裁判所の検認は不要である(第1004条第2項)。ただし、日本国内の公証役場が作成する遺言公正証書とは書式が異なり、金融機関や法務局の窓口で取扱いに時間を要する例が報告されている。
用語解説
- 領事 外国に駐在し、自国民の保護や証明事務を担う公務員をいう。大使館の領事部や総領事館に配置される。領事官の行う公証事務については、領事官の行う証書の作成等に関する法律が定めを置く。
- 公証人の職務 遺言者の口授を受けて筆記し、読み聞かせ又は閲覧させ、方式に従って作成した旨を付記して署名するといった一連の職務をいう。令和7年10月1日施行の改正により、公正証書遺言の作成手続は公証人法の定めるところによることとされた(第969条第2項)。
- 遺言の方式の準拠法に関する法律 昭和39年法律第100号。遺言の方式に関する法律の抵触に関する条約を国内法化したものである。同法第2条は、遺言の方式が、行為地法、遺言者が遺言の成立又は死亡の当時国籍を有した国の法、住所を有した地の法、常居所を有した地の法、不動産に関する遺言についてその不動産の所在地法のいずれかに適合すれば方式に関し有効とする。日本国籍を有する者は、居住地がどこであっても日本法の方式で遺言を作成できる根拠となる。
判例・裁判例
本条を直接適用した公表裁判例は見当たらない。実務では、遺言の成立及び効力について遺言者の本国法によるとする法の適用に関する通則法第37条第1項、相続について被相続人の本国法によるとする同法第36条とあわせて検討される。日本の方式で作成した遺言が居住国で通用するかは、その国の国際私法と実質法によるため、現地の法律家の確認が不可欠となる。
令和8年改正の内容
改正後の第984条は次のとおりとなり、後段が削除される。
第九百八十四条 日本の領事の駐在する地に在る日本人が公正証書又は秘密証書によって遺言をしようとするときは、公証人の職務は、領事が行う。
秘密証書遺言について、第970条第1項第1号(遺言者の証書への押印)、第2号(証書の封印)、第4号(遺言者及び証人の封紙への押印)の押印要件が廃止されるため、領事方式の場合に押印を免除する後段の規定が不要となったことによる。
現行の後段が第970条第1項第4号のみに言及している点にも改正の跡がある。改正前は第969条第4号にも言及していたが、「民事関係手続等における情報通信技術の活用等の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」(令和5年法律第53号)により、令和7年10月1日をもって第969条第1項第3号から第5号までが削除され、公正証書遺言の作成手続が公証人法に委ねられた。これに伴い、第984条後段から第969条第4号への言及が落ちて、現在の条文となっている。
特別方式の遺言をめぐる実務上の留意点
- 証人の確保が最大の関門となる 第982条により第974条が準用される結果、推定相続人とその配偶者・直系血族は証人になれない。危急の場面で最初に駆けつけるのは家族であり、まさにその家族が証人になれない。死亡危急時遺言は証人三人以上、船舶遭難者遺言は証人二人以上を要する。誰を証人に立てるかを、危機が訪れる前に想定しておくほかない。
- 隔絶地遺言には家庭裁判所の確認がない 第977条・第978条の遺言は、危急時遺言と異なり確認の審判を経ないまま効力を持つ。真正を担保するのは第980条の署名押印だけである。関与者全員の署名を漏らさないこと、署名できない者があれば第981条の付記を具体的に記載することが、そのまま遺言の生死を分ける。
- 6か月ルールを忘れない 特別方式の遺言を作成したあとに遺言者が回復した場合、普通方式による作り直しを速やかに検討する。危急時遺言は「とりあえずの措置」であり、確定的な備えではない。
- 在外邦人は選択肢を比較する 領事方式の遺言は検認が不要という利点がある一方、日本国内での手続に手間がかかる場合がある。一時帰国の予定があるなら、日本の公証役場で遺言公正証書を作成しておくほうが、相続手続はなめらかに進む。
- 令和8年改正への向き合い方 押印要件の廃止は公布から1年以内の政令で定める日から施行される。施行日が到来するまでは現行法が適用され、押印は依然として要件である。改正を先取りして押印を省略すれば、遺言は無効となる。逆に施行後も押印を残すことに不利益はないため、当面は押印しておく運用が安全である。録音録画による新方式についても同様であり、施行日の到来を確認したうえで利用する。
参考資料
- e-Gov法令検索「民法」(明治29年法律第89号)
- 法務省「民法等の一部を改正する法律案」(令和8年法律第45号、令和8年6月24日公布) 法律案要綱・新旧対照条文
- 法務省「『民法等の一部を改正する法律』(成年後見及び遺言の制度の見直し)について」(令和8年6月30日)
- 法制審議会第204回会議配布資料「民法(遺言関係)等の改正に関する要綱案」
- 法務省「民法(遺言関係)等の改正に関する中間試案」及び同補足説明(令和7年7月15日)
- 法務省「公正証書の作成に係る一連の手続のデジタル化について」
- 裁判所ウェブサイト 裁判例検索
- 最高裁判所第二小法廷判決昭和47年3月17日民集26巻2号249頁
- 最高裁判所第二小法廷判決昭和56年9月11日民集35巻6号1013頁
- 最高裁判所第二小法廷判決昭和56年12月18日民集35巻9号1337頁
- 最高裁判所第一小法廷判決平成元年2月16日民集43巻2号45頁
- 最高裁判所判決平成5年10月19日家庭裁判月報46巻4号27頁
- 最高裁判所第一小法廷判決平成13年3月27日判例時報1745号92頁
- 遺言の方式の準拠法に関する法律(昭和39年法律第100号)
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