1 条文原文
(相続分の取戻権) 第九百五条 共同相続人の一人が遺産の分割前にその相続分を第三者に譲り渡したときは、他の共同相続人は、その価額及び費用を償還して、その相続分を譲り受けることができる。
2 前項の権利は、一箇月以内に行使しなければならない。
2 趣旨・立法背景
2-1 規定が置かれた理由
相続が開始すると、共同相続人は遺産全体を合有的に共有する状態に置かれる(民法898条)。この共有状態は、民法249条以下に定める通常の共有と異なり、当事者の自由な意思によって形成されるものではなく、法律上当然に生じる。その性質上、共同相続人が遺産分割前に自己の相続分を第三者に譲渡することは法律上禁止されていない。しかし、相続分の包括的な地位を取得した第三者が遺産分割協議に加わると、相続人間の人的信頼関係を前提とする分割手続きが著しく困難になる。被相続人の財産、とりわけ不動産や事業資産が相続人以外の者の手に渡れば、家族間で形成してきた財産的基盤そのものが解体される。
本条は、こうした事態を防ぐため、他の共同相続人に相続分の買取りを認める権利、すなわち取戻権を付与した。取戻権の行使によって相続分の地位は共同相続人の間に留まり、遺産分割が相続人間のみで完結する環境が保たれる。
2-2 立法経緯と現代的意義
本条の原型は旧民法(明治民法)に由来し、家産(先祖伝来の財産)を相続人間で維持するという家産維持的思想を背景としていた。立法後、この思想的基盤は時代とともに希薄化し、学説上は「廃止すべき」とする立法論上の批判が多い。しかし現行法においても本条は維持されており、その積極的存在意義は、相続分が第三者の手に渡って遺産分割に見知らぬ者が介入し紛争が激化することを予防し、分割を円滑に進める点に一元化されている(『新版注釈民法(27)相続(2)補訂版』参照)。
3 用語解説
相続分(本条における意味)
本条にいう「相続分」は、民法900条・901条が規定する法定相続分の割合そのものではなく、共同相続人としての包括的地位を指す。積極財産(預金・不動産・有価証券等)と消極財産(債務)の双方を含む遺産全体に対する持分的権利の総体であり、相続人としての身分から生じる一切の権利義務の地位である。これを「相続人の地位」と表現することもある。
第三者
共同相続人および包括受遺者(被相続人の遺言で特定の者に包括的な財産を承継させた者)以外の者を指す。第三者への相続分の譲渡があってはじめて取戻権が発生する。共同相続人間での相続分の移転は、当該相続人の相続分が増減するにとどまり、遺産分割の当事者構成に外部者が加わるわけではないため、取戻権の行使対象とならない。
価額及び費用
取戻権を行使する際に他の共同相続人が譲受人(第三者)に対して支払う対価である。「価額」は当該相続分の客観的な評価額(取戻権行使時の遺産の時価を基準に算定した持分相当額)を意味し、「費用」は当該相続分の譲渡にあたって要した仲介手数料・登記費用・印紙代等の付随費用を意味する。
取戻権
形成権の一種であり、取戻権者が譲受人(第三者)に対して一方的な意思表示をすることで相続分の移転という法律効果が発生する。譲受人の同意や承諾は要しない。取戻権の行使によって相続分は取戻権者個人の財産となるのではなく、他の共同相続人全員の共有財産(遺産の一部)として回帰する。取戻権の行使に要した費用もまた共同相続人全員が負担する性質を持つ。
一箇月
第2項が定める取戻権の行使期間である。この期間は除斥期間であり、消滅時効と異なって中断・更新が認められない。期間が経過すると当然に取戻権は消滅し、当事者が主張しなくても裁判所が期間経過を考慮する。
4 解釈上の論点
4-1 「第三者」の範囲
取戻権が発生する前提は、相続分が「第三者」に譲渡されることである。共同相続人の間での相続分の移転は、取戻権の対象から外れる。包括受遺者についても同様に、共同相続人に準じる地位(民法990条)にあることから第三者には含まれないと解されている。
取戻権を行使された譲受人(第三者)は、価額と費用の支払いを受けることで相続分を手放すことになる。この構造は、第三者に相続分取得の機会を与えつつ、他の共同相続人の異議申立権を保障するものである。
4-2 取戻権の行使方法
取戻権は形成権であるため、権利者から譲受人に対する意思表示のみで効果が発生する。書面による必要はなく、口頭でも有効とされるが、紛争予防の観点から内容証明郵便等の記録が残る方法による行使が実務上推奨される。行使する相続人が複数いる場合、各自が個別に行使することも可能であり、行使しない者がいても他の者の行使を妨げない。
4-3 1箇月の起算点
第2項が規定する「1箇月」の起算点については学説上見解が分かれている。
- 譲渡(契約)の時から起算するという譲渡時説
- 譲渡の通知を受けた時から起算するという通知受領時説
- 譲渡の事実を知った時から起算するという認識時説
本山敦『新注釈民法(19)』では、譲渡時説が通説として位置づけられている。ただし、他の共同相続人が譲渡を知らないままに1か月が経過した場合に取戻権が消滅するという帰結は、権利者に著しく不利であるとして、実務・学説からは認識時説または通知受領時説を支持する立場も根強い。この点に関する最高裁の直接の判断は現時点では示されていない。
4-4 有償・無償を問わない
本条は相続分の譲渡が有償であるか無償(贈与)であるかを問わない。譲渡が無償であっても取戻権が発生し、取戻権者は相続分の客観的評価額を支払って取り戻すことができる。
5 判例・裁判例
最判昭和53年7月13日(民集32巻5号1000頁)
共同相続人の一人が、遺産を構成する特定の不動産について自らの共有持分権を第三者に譲渡した事案において、最高裁は、民法905条の規定を適用または類推適用することはできないと判断した。
判旨の核心は、本条が対象とする「相続分」は包括的な遺産全体に対する地位の移転であり、遺産を構成する個別財産上の共有持分の移転とは性質が異なるという点にある。共同相続人が特定不動産の共有持分を譲渡する場合、その行為は遺産分割の手続きを経ることなく特定財産の持分を外部に流出させるものであり、本条が予定する「相続人としての地位の包括的移転」とは局面が異なる。したがって、この場合に取戻権によって個々の財産について持分を回復することは認められない。
この判例は、相続分の譲渡と特定財産の持分譲渡を明確に区別し、本条の射程範囲を画する先例として現在まで参照されている。
最判平成13年7月10日(民集55巻5号955頁)
共同相続人間で相続分の譲渡が行われた場合、それに伴って農地の権利が移転する局面での農地法3条1項(知事の許可)の要否が問われた事案において、最高裁は許可不要と判断した。相続分の譲受人である共同相続人の遺産分割前における地位は、持分割合の数値が異なるにとどまり、相続によって取得した地位と本質的に異なるものではないことを理由としている。
本判例は直接的には農地法の解釈判断であるが、共同相続人間における相続分の譲渡の法的性質(既存の相続人としての地位の量的変動にすぎない)を示す先例として、民法905条の「第三者」該当性を否定する根拠にも援用される。
6 実務上の留意点
6-1 取戻権行使の迅速な判断
1箇月という期間は極めて短い。相続分が第三者に譲渡されたという事実を知った(または知り得た)段階から時間的猶予はほとんどない。他の共同相続人は、第三者への譲渡を把握した時点で直ちに行政書士・弁護士等の専門家に相談し、価額の算定と意思表示の手続きを進める必要がある。
6-2 価額算定の困難
取戻しにあたって支払う「価額」は、当該相続分の客観的評価額である。遺産の内容が不動産・株式・事業用資産など多様な場合、評価自体が困難を伴う。鑑定・査定を経ずに行使すると、後から価額の算定をめぐる争いが生じることがある。
6-3 取り戻した相続分の帰属
取戻権を行使した相続人は、その相続分を自己のものとして保有するわけではない。取り戻された相続分は、共同相続人全員の共有財産(遺産プール)として回帰し、遺産分割の対象に戻される。費用もまた共同相続人全員が負担する。取戻権の行使は「自己に相続分を取り込む行為」ではなく、「遺産を相続人間に取り戻す行為」である点を確認しておく必要がある。
6-4 相続分の譲渡と特定持分の譲渡の区別
上記最判昭和53年が明らかにしたとおり、相続分(包括的地位)の第三者への譲渡がある場合にのみ取戻権が発動する。特定の不動産や預貯金についての持分を第三者に譲渡した場合には本条の適用がなく、取戻権は生じない。当事者が「相続分の譲渡」と称していても、実質が特定財産の持分移転である場合には、本条は機能しない。
7 市民向けまとめ
相続が起きると、家族全員で遺産をどう分けるかを話し合う(遺産分割協議)ことになる。その話し合いが終わる前に、相続人の一人が「自分の相続分(相続人としての権利のかたまり)」を家族以外の赤の他人に売ったり贈ったりすることがある。そうなると、遺産分割の場に見知らぬ人が入ってくることになり、話し合いが難しくなる。
民法905条はこの事態を防ぐため、他の相続人に「その第三者から相続分を買い取る権利(取戻権)」を与えている。取戻権を行使するには、その相続分の適切な値段と、譲渡にかかった費用を支払えばよい。
ただし、この権利は1か月以内に行使しなければ消える。「知っていたのにためらっていたら期限が過ぎた」という事態は取り返しがつかないため、相続分の第三者への譲渡を知った段階で直ちに専門家に相談することを勧める。
また、取戻権を行使して取り戻した相続分は、行使した本人だけのものにはならない。遺産全体の共有財産として皆の分割の俎上に戻る仕組みである。
8 関連条文
- 民法第898条(共同相続の効力・遺産の共有)
- 民法第899条(共同相続と債権)
- 民法第900条(法定相続分)
- 民法第904条(相続分の算定)
- 民法第906条(遺産の分割の基準)


