1 条文原文

(相続の放棄の方式) 第九百三十八条 相続の放棄をしようとする者は、その旨を家庭裁判所に申述しなければならない。


2 趣旨・立法背景

2-1 要式行為としての相続放棄

相続放棄は、相続人が一度行うと原則として撤回できず(民法919条1項)、放棄した相続人は初めから相続人でなかったものとみなされる(民法939条)。この効果は放棄した本人のみならず、他の相続人の相続分拡大、相続債権者の権利実現可能性など、複数の第三者に直接影響を与える。

このような重大な法的効果を安易な意思表示によって生じさせることは、当事者保護の観点から妥当でない。民法938条は、相続放棄を家庭裁判所への申述という国家機関を介した厳格な方式に限定することで、放棄の意思の真意性・慎重性を担保し、後日の紛争を防止する機能を果たす。

2-2 明治民法からの継承

本条は明治民法第1038条を引き継いだ規定である。明治民法の立案段階から、相続放棄について家庭裁判所(当時は区裁判所)への申告を要件とする立場が採用されており、当事者間の合意のみで効力を生じさせる制度は採用されなかった。昭和22年の民法全面改正を経て現行の形となったが、家庭裁判所への申述を唯一の方式とする基本構造は維持されている。

2-3 相続開始前の放棄の禁止

相続の放棄は、相続開始後にのみ行うことができる。被相続人の生存中に「相続放棄の約束」をしても、その約束は民法上の相続放棄としての効力を生じない(大審院大正6年11月9日決定)。これは、相続開始前には遺産の内容が確定しておらず、放棄者が何を放棄するかを正確に認識した上での意思決定が不可能なためである。生前に相続分に関する処理をしたい場合は、遺産分割協議の事前準備ではなく、遺言の活用等、別の法的手段を検討する必要がある。


3 用語解説

申述

家庭裁判所に対して意思表示や事実を申し出ること。通常の「申請」と異なり、家事事件手続法の規律に服する。相続放棄の申述は、家事事件手続法第201条が詳細な手続を定めている。

要式行為

法律上有効とされるために、一定の方式に従うことが求められる法律行為。相続放棄の場合、家庭裁判所への申述という方式を踏まなければ、いかなる事情があっても放棄の効力は生じない。口頭の約束、書面への署名、共同相続人への通知、いずれも方式を満たさない。

申述受理

家庭裁判所が相続放棄の申述を適法と認めて受け付ける審判。申述を受理したとしても、相続放棄が有効であることを確定する効力はなく、放棄の有効性は後に訴訟で争われることがある(大阪高裁平成14年7月3日決定参照)。

熟慮期間

相続人が相続の承認または放棄をするかどうかを検討するための期間。原則として「自己のために相続の開始があったことを知った時」から3か月(民法915条1項)。この期間内に申述しなければ単純承認したものとみなされる(民法921条2号)。


4 申述手続の概要

4-1 申述先

相続が開始した地(被相続人の最後の住所地)を管轄する家庭裁判所(家事事件手続法201条1項)。

4-2 申述書の記載事項

家事事件手続法第201条第5項および家事事件手続規則第105条第1項により、次の各事項を記載した申述書を提出する。

  1. 申述人および法定代理人の氏名・住所
  2. 相続を放棄する旨
  3. 被相続人の氏名・最後の住所
  4. 被相続人との続柄
  5. 相続の開始があったことを知った年月日

財産目録の提出は不要であり、この点で全相続人が共同して行わなければならない限定承認(民法924条)と手続上の負担が大きく異なる。

4-3 添付書類(最高裁判所公式案内)

申述人が被相続人の子(または代襲者)の場合、標準的な添付書類として次のものが必要とされている。

  • 申述人の戸籍謄本(全部事項証明書)
  • 被相続人の死亡の記載がある戸籍謄本(除籍、改製原戸籍を含む)
  • 被相続人の住民票除票または戸籍附票

申述する相続順位によって必要書類が異なるため、管轄の家庭裁判所に事前確認することが望ましい。戸籍謄本に代えて法定相続情報一覧図の写しを提出できる場合もある。

4-4 照会書・回答書のやりとり

申述書が提出(受付)されると、家庭裁判所から申述人に対して照会書(回答書)が送付される。申述人はこれに回答を記載して返送し、家庭裁判所が審査の上、申述を受理するかどうかの審判をする。申述受理の審判が確定した時点で相続放棄の効力が生じる。


5 申述受理の法的性質と効力

5-1 受理は有効性の確定ではない

申述受理審判は、家庭裁判所が後見的立場から行う公証的性質を有する準裁判行為である。申述が受理されたとしても、放棄が有効であることを確定的に認める効力はなく、受理後も訴訟において放棄の無効を主張・立証することが可能である(大阪高裁平成14年7月3日決定)。

したがって、相続放棄申述受理通知書や相続放棄申述受理証明書が存在しても、放棄の有効性が確認できたとはいえない。相続債権者が放棄を無効と考える場合、民事訴訟を提起して相続人としての責任を追及することになる。

5-2 受理後の撤回禁止と取消の余地

受理審判の確定後は、相続放棄の撤回は一切認められない(民法919条1項)。ただし、詐欺・強迫・錯誤等の取消事由がある場合には、民法919条2項の規定に基づき、家庭裁判所への取消申述という方法で取り消すことができる。取消権の行使期限は、追認できる時から6か月、または相続放棄の時から10年である(民法919条3項・4項)。

受理前の段階であれば、申述の取下げが自由に認められる。


6 判例・裁判例

6-1 相続放棄と詐害行為取消権(最判昭和49年9月20日)

債権者が、相続人の相続放棄を民法424条の詐害行為取消権の対象として取り消せるかが争われた事案。最高裁は取消権の行使を否定した。

判旨の骨格は二つである。第一に、詐害行為取消権の対象となる行為は積極的に債務者の財産を減少させる行為であることを要し、消極的にその増加を妨げるにすぎない行為は含まれない。相続放棄は既得財産を積極的に減少させる行為ではなく、消極的に財産の増加を妨げる行為にすぎない。第二に、相続放棄は身分行為であり、他人の意思によって強制すべきでない。仮に詐害行為として取り消せるとすれば、相続の承認を事実上強制する結果となり不当である。

本判決により、相続放棄は債権者による詐害行為取消の対象とならないことが確立している。遺産分割協議における相続分の放棄については、これと異なり詐害行為取消の対象となり得るとされており(最判平成11年6月11日)、相続放棄との区別が実務上重要な問題となる。

6-2 熟慮期間の起算点の特例(最判昭和59年4月27日)

相続人が、被相続人に相続財産が全く存在しないと信じたために3か月以内に放棄の申述をしなかった事案。最高裁は、被相続人の生活歴・相続人との交際状態等の諸般の事情に照らして相続財産の有無の調査を期待することが著しく困難であり、そのように信じたことに相当な理由があると認められる場合には、熟慮期間は「相続財産の全部または一部の存在を認識した時、または通常これを認識し得べき時」から起算すべきとした。

この判例により、3か月の熟慮期間が経過した後でも相続放棄申述が受理される実務が定着しており、家庭裁判所は遅延について相当な理由がないと明らかに判断できる場合を除き申述を受理する運用をとっている。

6-3 錯誤による相続放棄の効力(福岡高判平成10年8月26日)

相続放棄の申述が家庭裁判所に受理された後に、錯誤を理由として放棄の無効を主張できるかが問われた事案。福岡高裁は、申述受理後であっても錯誤による無効の主張が認められる余地があるとした上で、具体的な錯誤の成否について審理した。

通説・判例上は、申述受理後であっても錯誤その他の取消・無効事由の主張が認められており、放棄の有効性は訴訟において判断される。ただし、一般的に相続放棄の意思表示に錯誤が認められるケースは限定的であるとされる。


7 実務上の留意点

単独での申述が可能

限定承認(民法923条)が共同相続人の全員が共同してのみ行えるのと異なり、相続放棄は各相続人が単独で申述できる。条件・期限を付けることはできず、「○○の土地だけ放棄する」「兄が相続するなら放棄する」という内容の放棄は認められない。

申述の受付と受理の混同

実務上しばしば混同されるのが「受付」と「受理」の区別である。申述書を家庭裁判所の窓口に提出した時点は「受付」にすぎず、相続放棄の効力は家庭裁判所の受理審判の確定によって生じる。受付後・受理前の段階であれば申述の取下げが可能である。

未成年者・成年被後見人の申述

意思能力・行為能力に制限がある者の申述は、法定代理人が行う。未成年者の場合、親権者が代理人となるが、他の共同相続人である親権者と未成年者との間で利益相反が生じる場合には、特別代理人の選任が必要となる(民法826条)。もっとも、親権者が放棄することで被後見人の相続分が増加しない関係(例:後見人自身が放棄し、同時に被後見人全員も放棄する場合)については、利益相反に当たらないとする裁判例がある。

相続放棄と「相続分の放棄」の区別

「相続放棄」(民法938条)と「相続分の放棄」は法律上異なる概念である。相続放棄は相続人としての地位を初めから否定する行為(民法939条)であり、家庭裁判所への申述が必要である。これに対して「相続分の放棄」は、相続人の地位を保持したまま遺産分割において自己の取得分を0とすることに合意するものであり、家庭裁判所への申述は不要である。相続分の放棄は詐害行為取消の対象となり得る点でも相続放棄と区別される。


8 関連条文

  • 民法915条(相続の承認・放棄をすべき期間)
  • 民法919条(相続の承認・放棄の撤回および取消し)
  • 民法921条(法定単純承認)
  • 民法923条(限定承認)
  • 民法939条(相続の放棄の効力)
  • 家事事件手続法201条(限定承認・相続放棄の申述)
  • 家事事件手続規則105条(申述書の記載事項)

まとめ

民法938条が定める「家庭裁判所への申述」は、相続放棄における唯一の適法な方式である。口頭の約束、書面への署名、他の相続人への通知、いずれも民法上の相続放棄としての効力をもたない。申述は熟慮期間(原則3か月)内に行う必要があるが、最高裁昭和59年4月27日判決による起算点の特例がある。申述受理は放棄の有効性を確定するものではなく、受理後も訴訟で有効性を争うことが可能である。また、相続放棄は詐害行為取消権の対象とならないことが最高裁昭和49年9月20日判決によって確立している。


中川総合法務オフィスでは、相続放棄の手続に関する相談、熟慮期間の経過後の対応、放棄の有効性に関する法的助言を承っております。行政書士として、申述書類の作成支援や手続の流れの整理をいたします。お気軽にお問い合わせください。

Tel: 075-955-0307 https://compliance21.com

Follow me!