はじめに
相続が開始すると、被相続人の財産は共同相続人の共有状態に置かれる。この共有状態を解消し、誰がどの財産を取得するかを確定させる手続が遺産分割である。しかし、遺産分割の効力は「分割が成立した日」から生じるわけではない。民法第909条は、分割の効力が相続開始時点まで遡ることを明文で定める。これを遺産分割の遡及効という。
一方、相続が開始した直後に問題となるのが被相続人の預貯金口座の凍結である。金融機関は被相続人の死亡を知ると口座を凍結し、その後の出金には相続人全員の同意を求める運用が定着している。葬儀費用や当面の生活費が急を要するにもかかわらず、遺産分割協議が終わるまで一切引き出せないとなると、残された遺族の生活は著しく圧迫される。
この問題に対応するため、平成30年改正(令和元年7月1日施行)により新設されたのが民法第909条の2である。本稿では、第909条と第909条の2を連続して解説し、実務的な計算方法まで具体的に示す。
第909条(遺産の分割の効力)
条文原文
第九百九条 遺産の分割は、相続開始の時にさかのぼってその効力を生ずる。ただし、第三者の権利を害することはできない。
趣旨・立法背景
遺産分割の法的性質については、かつて学説上の対立があった。共有持分の移転(移転的効果説)ととらえるか、相続開始時点への遡及(宣言的効果説)ととらえるかである。現行民法は宣言的効果説を採り、遺産分割による権利取得は相続開始時にさかのぼる旨を明示した。
この遡及効は、被相続人から相続人への権利承継を一体的・連続的なものとして処理するための技術的手当てである。遡及効がなければ、分割成立時から相続開始時までの間に蓄積した果実の帰属や税務上の取扱い、登記手続の順序などが複雑になる。遡及効を認めることで、相続人は相続開始時から当該財産を取得していたとして一貫した処理が可能になる。
もっとも、遡及効を無制限に貫くと第三者に不測の損害をもたらす。例えば、相続開始後に相続人Aがその法定相続分に対応する持分を第三者Xに売却し、その後の遺産分割でその不動産が相続人Bに帰属することになった場合、遡及効によってXの取得した持分が遡って消滅することになれば、Xは不測の損害を被る。そこでただし書は、第三者の権利を害しない旨を定め、遡及効に対する歯止めを置いた。
用語解説
遺産分割の遡及効 遺産分割の効力が、分割成立時ではなく相続開始時まで遡って生じるという法的効果をいう。これにより、分割で特定財産を取得した相続人は、相続開始時点からその財産を取得したものとして扱われる。
第三者 第909条ただし書における「第三者」とは、相続開始後に遺産分割成立までの間に遺産に関して法律上の利害関係を有するに至った者を指す。判例・通説によれば、その善意・悪意を問わない(相続分の譲受人(905条)は含まれない)。
対抗要件 第三者がただし書の保護を受けるためには、対抗要件を備えることが必要とされる。不動産であれば登記、動産であれば引渡しが対抗要件にあたる。対抗要件を備えない第三者は、ただし書の保護を受けられない(通説・判例)。
判例・裁判例
最高裁昭和46年1月26日判決(民集25巻1号90頁)
本件では、遺産分割調停の成立後に登記名義が更正されないまま放置されていたところ、共同相続人の債権者が法定相続分に応じた持分の仮差押登記を経由したことが問題となった。
最高裁は、相続財産中の不動産につき遺産分割により法定相続分と異なる権利を取得した相続人は、登記を経なければ、当該不動産について分割後に権利を取得した第三者に対し、法定相続分を超える権利の取得を対抗できないと判示した。分割後の第三者との関係では、遡及効を認めつつも民法177条を適用し、登記の先後で優劣を決する立場を採ったものである。
この判決は、遺産分割後に速やかな相続登記を行う必要性を強く示している。令和3年民法・不動産登記法改正により、相続登記は令和6年4月1日から義務化(正当な理由がなく3年以内に登記しない場合は10万円以下の過料)された。昭和46年判決の射程はこの義務化と相まって実務上の重みを増している。
ただし書の「第三者」の範囲に関する学説対立
第909条ただし書の「第三者」について、遺産分割「前」の第三者に限るとする見解(前第三者説)と、分割「後」の第三者を含むとする見解(後第三者説)が存在する。前記最判昭和46年は、分割後の第三者を177条の問題として処理することで両者を峻別せず、実質的には「前第三者=ただし書、後第三者=177条」という二元的構造を採用した。学説もこの枠組みをおおむね支持している。
実務上のポイント
相続不動産について遺産分割が成立した場合、分割内容に基づく所有権移転登記(または持分更正登記)は速やかに行うことが不可欠である。分割成立を対外的に公示しなければ、第三者との関係で遡及効の主張が封じられるリスクがある。特に被相続人の債権者が法定相続分を基礎とした差押えを行う可能性がある期間(債権の消滅時効期間中)は要注意である。
第909条の2(遺産の分割前における預貯金債権の行使)
条文原文
第九百九条の二 各共同相続人は、遺産に属する預貯金債権のうち相続開始の時の債権額の三分の一に第九百条及び第九百一条の規定により算定した当該共同相続人の相続分を乗じた額(標準的な当面の必要生計費、平均的な葬式の費用の額その他の事情を勘案して預貯金債権の債務者ごとに法務省令で定める額を限度とする。)については、単独でその権利を行使することができる。この場合において、当該権利の行使をした預貯金債権については、当該共同相続人が遺産の一部の分割によりこれを取得したものとみなす。
趣旨・立法背景
最高裁平成28年12月19日大法廷決定(民集70巻8号2121頁)という転換点
本条を理解するには、平成28年大法廷決定の位置づけを押さえる必要がある。
従来の判例(最判昭和29年4月8日ほか)は、預貯金債権を金銭債権の一種として「相続開始と同時に法定相続分に応じて当然分割される」と解してきた。この考え方によれば、各相続人は遺産分割を待たずに自己の相続分に応じた預貯金を金融機関に請求できることになる。
ところが、最高裁平成28年大法廷決定は、普通預金債権・通常貯金債権・定期貯金債権のいずれも、相続開始と同時に当然に相続分に応じて分割されることはなく、遺産分割の対象となると判断した。この変更は、預貯金が現金に近い性質を持ち、他の遺産と一体として公平に分割されるべきとの判断に基づく。
しかし、この判例変更は実務に深刻な支障をきたした。葬儀費用の支払い、相続税の納税資金の確保、被相続人が生前に負担していた老人ホームの費用清算など、相続直後に預貯金への緊急アクセスが必要な場面は多い。遺産分割協議の成立を待てない事情がある場合でも、全員の同意なしに一切引き出せないとなると、残された遺族の生活が著しく困難になる。
この問題を解消するために、平成30年民法(相続関係)等改正(令和元年7月1日施行)が第909条の2を新設した。各共同相続人が遺産分割成立前であっても、一定額の範囲内で預貯金債権を単独で行使できるとするものである。
用語解説
預貯金債権 本条の対象は「遺産に属する預貯金債権」であり、普通預金・定期預金・通常貯金・定期貯金などが含まれる。平成28年大法廷決定の射程が及ぶ金融商品が対象となる。
法定相続分 第900条(法定相続分)および第901条(代襲相続人の相続分)により算定された各相続人の相続分をいう。本条の計算に使うのは「法定相続分」であり、寄与分や特別受益で修正された具体的相続分ではない点に注意が必要である。
法務省令で定める額(上限150万円) 「民法第909条の2に規定する法務省令で定める額を定める省令」(平成30年法務省令第29号)により、同一の金融機関(債務者)に対する権利行使の上限は150万円と定められている。複数口座があっても合計で150万円が上限となる。
遺産の一部の分割 本条後段は、単独で権利行使した預貯金について「当該共同相続人が遺産の一部の分割によりこれを取得したものとみなす」と定める。これにより、払戻し済みの金額はその後の遺産分割協議において「先行して取得した遺産の一部」として計算に組み込まれる。払戻しを受けた相続人の取得額が、最終的な遺産分割で確定する具体的相続分を超えた場合には清算が必要になる。
計算方法
払戻し可能額の計算式は次のとおりである。
単独行使可能額 = 相続開始時の預貯金債権額(口座単位)× 1/3 × 払戻しを求める相続人の法定相続分
※ 同一金融機関への権利行使合計額は150万円を上限とする
計算例
相続人が長男と長女の2名(各法定相続分1/2)で、A銀行に普通預金口座が1口座あり、相続開始時の残高が600万円であった場合。
- 長男の単独行使可能額:600万円 × 1/3 × 1/2 = 100万円
- 150万円以内であるため、100万円全額を単独で払戻しできる。
次に、残高が1,200万円の場合。
- 長男の単独行使可能額(計算上):1,200万円 × 1/3 × 1/2 = 200万円
- ただし、A銀行への上限が150万円であるため、実際の払戻し可能額は150万円となる。
複数の金融機関に口座がある場合、法務省令の上限は「預貯金債権の債務者ごと」すなわち金融機関ごとに150万円が適用される。B銀行にも残高1,200万円の口座があれば、さらにB銀行からも150万円まで払戻しを受けられる。
手続きの流れ
金融機関の窓口で単独払戻しを求める場合、通常、金融機関から以下の書類の提出を求められる。
- 被相続人の出生から死亡までの戸籍謄本類
- 払戻しを求める相続人の戸籍謄本
- 相続人全員の戸籍謄本(法定相続分の確認のため)
- 払戻しを求める相続人の印鑑証明書
- 金融機関所定の「相続による預貯金の払戻し申請書」
家庭裁判所の関与を必要とせず、各金融機関の窓口に必要書類を持参するだけで手続きが完結する点が、仮払い審判(民法907条3項・家事事件手続法200条3項)との大きな違いである。
判例・裁判例
最高裁平成28年12月19日大法廷決定(民集70巻8号2121頁)
本決定は従来の当然分割説を変更し、普通預金・通常貯金・定期貯金のすべてについて、相続開始と同時に当然分割されることはなく遺産分割の対象となるとした。この変更が第909条の2の立法直接の契機となった。
決定は、普通預金について、1個の預金契約から生じる預金口座の性質として、口座全体が一体として管理・運用されており、口座の分割を観念できないこと、および常に変動する残高に相続分を乗じた額を各相続人が個別に請求することが当事者の合理的意思に沿わないことを挙げ、当然分割説を採らない理由とした。
法務省令上限額の解釈(立案担当者の見解)
法務省の立案担当者は、第909条の2による権利行使が可能な額の判断は個々の預貯金債権(口座)ごとに行われると解している。複数の支店に口座がある場合は、支店ごとではなく金融機関ごとに150万円の上限が適用されると整理されている。
実務上のポイント
払戻しを受けた後の遺産分割協議では、払い戻した金額を「先行分割済みの遺産」として扱い、残余財産の分配を行う。払戻し額が当該相続人の具体的相続分を超えていた場合は超過分の清算義務が生じるため、払戻し後も遺産分割協議書の作成には注意を要する。
また、本条は「一定額の払戻しを認める」制度であって、預貯金全体の単独引き出しを認めるものではない。葬儀費用が払戻し可能額を超える場合は、他の相続人全員の同意を得るか、家庭裁判所の仮払い審判(家事事件手続法200条3項)を利用することになる。
第909条と第909条の2の関係
2条文を対比すると、以下の構造が見えてくる。
| 項目 | 第909条 | 第909条の2 |
|---|---|---|
| 主題 | 遺産分割の効力(遡及効) | 分割前の預貯金債権の単独行使 |
| 時期 | 分割成立後の効力問題 | 分割成立前の緊急措置 |
| 対象財産 | 遺産全般 | 預貯金債権(口座単位) |
| 第三者との関係 | ただし書・177条で処理 | 他の相続人の利益を考慮した上限設定 |
| 令和元年改正 | 改正なし(昭和22年以来の規定) | 新設 |
第909条が「遺産分割の効力は相続開始時まで遡る」という原則を定めるのに対し、第909条の2は「遡及効の原則が確立しているなかで、分割前の緊急の資金ニーズに対応する特例を設ける」という位置づけにある。両者はセットで理解することで、遺産分割制度の全体像が把握できる。
市民向けQ&A
Q 父が亡くなり、葬儀費用が急に必要になった。銀行口座を凍結されたが、第909条の2を使って引き出せるか。
A 引き出せる。相続開始時の残高に3分の1を乗じ、さらに申請する相続人の法定相続分を掛けた金額が払戻し可能額である。ただし、同一の金融機関での合計額は150万円が上限となる。必要書類(戸籍謄本等)を金融機関の窓口に提出することで手続きが完結する。家庭裁判所への申立ては不要である。
Q 遺産分割協議で父の自宅を長男が取得することになった。遡及効があるから、長男は相続開始時からその不動産の所有者だったといえるか。
A 法律上は相続開始時から所有していたとみなされる。ただし、登記を済ませていない段階で、分割後に別の第三者(例えば、別の相続人の債権者)が登記を得た場合は、その第三者に対して遡及効を主張することはできない。遺産分割成立後は速やかに相続登記を行うことが必要である。相続登記は令和6年4月1日から義務化されており、3年以内に申請しない場合は過料の制裁がある。
関連条文
- 民法第882条(相続開始の原因)
- 民法第899条の2(共同相続における権利の承継の対抗要件)
- 民法第900条(法定相続分)
- 民法第901条(代襲相続人の相続分)
- 民法第907条(遺産の分割の協議または審判等)
- 民法第177条(不動産物権変動の対抗要件)
- 家事事件手続法第200条第3項(遺産分割前の仮払い審判)
- 民法第909条の2に規定する法務省令で定める額を定める省令(平成30年法務省令第29号)
まとめ
民法第909条は、遺産分割の効力が相続開始時まで遡ることを定め、相続財産の取得を一体的に処理する根拠規定である。一方、ただし書の第三者保護規定と最高裁昭和46年1月26日判決の枠組みにより、分割後の登記を怠ると第三者に対抗できなくなる。令和6年4月1日施行の相続登記義務化と組み合わせて理解することが実務上の前提となる。
第909条の2は、最高裁平成28年12月19日大法廷決定が預貯金の当然分割説を変更したことを受けて新設された、相続実務の実態に即した実践的な規定である。払戻し可能額の計算式(残高×1/3×法定相続分、上限150万円)と手続きの流れを把握しておくことで、相続直後の生活資金・葬儀費用の問題に迅速に対応できる。

