労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(昭和41年法律第132号。以下「法」という。)に、カスタマーハラスメント(以下「カスハラ」という。)に関する2か条が新設された。令和7年法律第63号による改正であり、令和8年政令第17号により令和8年10月1日から施行される。
この2か条は、法第10章「職場における優越的な関係を背景とした言動等に起因する問題に関して事業主の講ずべき措置等」に置かれる。パワーハラスメント(以下「パワハラ」という。)の措置義務を定める第31条(改正前の第30条の2)と同じ章に並ぶ構造であり、章名の「言動」が「言動等」に改められたのは、パワハラに加えてカスハラを同章が扱うことになったためである。
本稿は、第33条と第34条を一体の立法単位として扱い、条文原文から解説する。
1 条文原文
法第33条
(職場における顧客等の言動に起因する問題に関する雇用管理上の措置等)
第三十三条 事業主は、職場において行われる顧客、取引の相手方、施設の利用者その他の当該事業主の行う事業に関係を有する者(次条第五項において「顧客等」という。)の言動であつて、その雇用する労働者が従事する業務の性質その他の事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えたもの(以下この項及び次条第一項において「顧客等言動」という。)により当該労働者の就業環境が害されることのないよう、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備、労働者の就業環境を害する当該顧客等言動への対応の実効性を確保するために必要なその抑止のための措置その他の雇用管理上必要な措置を講じなければならない。
2 事業主は、労働者が前項の相談を行つたこと又は事業主による当該相談への対応に協力した際に事実を述べたことを理由として、当該労働者に対して解雇その他不利益な取扱いをしてはならない。
3 事業主は、他の事業主から当該他の事業主が講ずる第一項の措置の実施に関し必要な協力を求められた場合には、これに応ずるように努めなければならない。
4 厚生労働大臣は、前三項の規定に基づき事業主が講ずべき措置等に関して、その適切かつ有効な実施を図るために必要な指針(次項において「指針」という。)を定めるものとする。
5 第三十一条第四項及び第五項の規定は、指針の策定及び変更について準用する。
法第34条
(職場における顧客等の言動に起因する問題に関する国、事業主、労働者及び顧客等の責務)
第三十四条 国は、労働者の就業環境を害する顧客等言動を行つてはならないことその他当該顧客等言動に起因する問題(以下この条において「顧客等言動問題」という。)に対する事業主その他国民一般の関心と理解を深めるため、各事業分野の特性を踏まえつつ、広報活動、啓発活動その他の措置を講ずるように努めなければならない。
2 事業主は、顧客等言動問題に対するその雇用する労働者の関心と理解を深めるとともに、当該労働者が他の事業主が雇用する労働者に対する言動に必要な注意を払うよう、研修の実施その他の必要な配慮をするほか、国の講ずる前項の措置に協力するように努めなければならない。
3 事業主(その者が法人である場合にあつては、その役員)は、自らも、顧客等言動問題に対する関心と理解を深め、他の事業主が雇用する労働者に対する言動に必要な注意を払うように努めなければならない。
4 労働者は、顧客等言動問題に対する関心と理解を深め、他の事業主が雇用する労働者に対する言動に必要な注意を払うとともに、事業主の講ずる前条第一項の措置に協力するように努めなければならない。
5 顧客等は、顧客等言動問題に対する関心と理解を深めるとともに、労働者に対する言動が当該労働者の就業環境を害することのないよう、必要な注意を払うように努めなければならない。
準用される法第31条第4項・第5項
第33条第5項が準用する第31条第4項・第5項は、指針を定めるにあたりあらかじめ労働政策審議会の意見を聴くこと、および指針を定めたときは遅滞なくこれを公表することを厚生労働大臣に義務づける規定である。
2 趣旨・立法背景
従前の到達点
カスハラへの対応は、令和2年厚生労働省告示第5号(パワハラ防止指針)の「7」において、顧客からの著しい迷惑行為に関し「行うことが望ましい取組」として整理されていたにとどまる。相談体制の整備、被害者への配慮、マニュアル作成や研修の実施が挙げられていたが、いずれも法的な義務ではなかった。
事業主が何もしなければ被害が放置される構造であり、他方で被害の深刻さは、精神障害の労災認定基準に「顧客や取引先、施設利用者等からの著しい迷惑行為」が明示されるなど、行政実務の側では早くから認識されていた。
自治体条例の先行
法改正に先立ち、東京都カスタマーハラスメント防止条例が令和6年10月4日に成立し、令和7年4月1日から施行された。北海道や群馬県、三重県など複数の自治体でも同種の条例が制定されており、条例には罰則を置かず、就業環境の保護と顧客の権利行使の調和を図る理念型の設計が共通する。国の法制化は、この自治体条例の蓄積を受けたものである。
改正法の位置づけ
令和7年法律第63号は、令和7年6月4日に成立し、同月11日に公布された。改正の柱は、カスハラ防止措置の義務化、求職者に対するセクシュアルハラスメント防止措置の義務化、治療と就業の両立支援の努力義務化、そして女性活躍推進法の期限延長である。
理由書には、多様な労働者が活躍できる就業環境の整備を図る趣旨が示されている。第33条が措置義務を、第34条が国・事業主・労働者・顧客それぞれの責務を定める組合せは、パワハラについて第31条と第32条が採る構成をそのまま踏襲したものである。
ただし第34条には、パワハラ規定にはない第5項が置かれた。行為主体となりうる顧客自身に努力義務を課した点が、カスハラ規制の固有の特徴である。加害行為を行う可能性のある一般国民に対して法律上の行動規範を宣言することで、社会全体の規範意識の醸成を図る設計であり、同じ改正で第4条第4項に下記の国の啓発責務が加えられたことと対をなす。
4 国は、第一項第十五号に規定する施策の充実に取り組むに際しては、何人も職場における労働者の就業環境を害する言動を行つてはならないことに鑑み、当該言動が行われることのない就業環境の形成に関する規範意識の醸成がなされるよう、必要な啓発活動を積極的に行わなければならない。
措置義務の対象範囲
第33条第1項は事業主の規模を問わない。パワハラ措置義務の導入時に置かれた中小事業主の猶予期間に相当する規定は、今回の改正法附則には設けられていない。令和8年10月1日から、中小企業も同時に義務の対象となる。
3 用語解説
- 「顧客等」 顧客、取引の相手方、施設の利用者その他の事業に関係を有する者をいう。指針は、今後商品の購入やサービスの利用をする可能性がある潜在的な顧客、今後取引する可能性のある者、駅・空港・病院・学校・福祉施設・公共施設などの利用者、取引先の担当者、契約締結交渉の担当者、施設・サービスの利用者とその家族、施設の近隣住民を例示する。取引関係の相手方を含む点で、企業間取引におけるいわゆるBtoBカスハラも射程に入る。
※京セラの稲盛さんがセラミック製品を市場に投入し始めた時にパナソニック等との取引で公然としたいじめを受けたことを複数の著書に書いているが、私はショックを受けるとともに、現在では取適法違反であるとともに、これは典型的なカスハラである。自信があったから耐えたのだ。今では許されない。驕る平家は久しからず。 - 「顧客等言動」 「顧客等」の言動のうち、労働者が従事する業務の性質その他の事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えたものをいう。苦情の申出がすべてこれに当たるわけではなく、客観的にみて社会通念上許容される範囲で行われたものは正当な申入れであって、カスハラには当たらない。
- 「社会通念上許容される範囲を超えた」言動 指針は、当該言動の内容が契約内容からして相当性を欠くもの、または手段や態様が相当でないものと定義する。判断にあたっては、言動の目的、当該言動を受けた労働者の問題行動の有無や内容・程度を含む経緯や状況、業種・業態、業務の内容・性質、言動の態様・頻度・継続性、労働者の属性や心身の状況、行為者との関係性を総合考慮する。内容と手段のいずれか一方のみが許容範囲を超える場合でも該当しうる。
- 「職場」 事業主が雇用する労働者が業務を遂行する場所をいう。通常の勤務場所に限られず、取引先の事務所、打合せに用いる飲食店、顧客の自宅も、業務遂行の場である限り含まれる。対面のほか、電話やSNSなどインターネット上で行われるものも対象となる。
- 「労働者」 正規雇用労働者に限られず、パートタイム労働者や契約社員を含む、事業主が雇用するすべての労働者をいう。派遣労働者については、下記の労働者派遣法第47条の4により派遣先も雇用主とみなされ、法第33条第1項および第34条第2項が適用される。
(労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律の適用に関する特例) - 第四十七条の四 労働者派遣の役務の提供を受ける者がその指揮命令の下に労働させる派遣労働者の当該労働者派遣に係る就業に関しては、当該労働者派遣の役務の提供を受ける者もまた、当該派遣労働者を雇用する事業主とみなして、労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(昭和四十一年法律第百三十二号)第二十七条の三第一項、第三十一条第一項、第三十二条第二項、第三十三条第一項及び第三十四条第二項の規定を適用する。この場合において、同法第三十一条第一項及び第三十三条第一項中「雇用管理上」とあるのは、「雇用管理上及び指揮命令上」とする。
- 「就業環境が害される」 当該言動により労働者が身体的または精神的に苦痛を与えられ、就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなど、就業する上で看過できない程度の支障が生じることをいう。判断基準は「平均的な労働者の感じ方」である。強い苦痛を与える態様であれば、1回の言動でも該当しうる。
- 「顧客等言動問題」 第34条が定義する概念で、「顧客等言動」を行ってはならないことその他当該言動に起因する問題を指す。指針は、労働者の意欲低下による職場環境の悪化、職場全体の生産性の低下、労働者の健康状態の悪化、休職や退職、これらに伴う経営上の損失を具体例として挙げる。
4 改正法の内容と変化
条番号の大幅な繰下げ
令和7年法律第63号は、第1条で治療と就業の両立支援の章を新設して章番号を1章ずつ繰り下げ、第2条でカスハラ2か条を挿入した。その結果、雑則以下の条番号が大きく移動する。実務で条文を引用する際に取り違えが起きやすいため、対照を確認しておく必要がある。
| 改正前 | 令和8年10月1日以後 | 内容 |
|---|---|---|
| 第30条の2 | 第31条 | パワハラの雇用管理上の措置義務 |
| 第30条の3 | 第32条 | パワハラに関する国・事業主・労働者の責務 |
| (新設) | 第33条 | カスハラの雇用管理上の措置義務 |
| (新設) | 第34条 | カスハラに関する国・事業主・労働者・顧客の責務 |
| 第30条の4 | 第35条 | 紛争の解決の促進に関する特例 |
| 第30条の5 | 第36条 | 都道府県労働局長による紛争の解決の援助 |
| 第30条の6 | 第37条 | 調停の委任 |
| 第33条 | 第42条 | 助言、指導及び勧告並びに公表 |
| 第34条 | 第43条 | 報告徴収および立入検査 |
| 第36条 | 第45条 | 報告の請求 |
| 第41条 | 第51条 | 過料 |
指針が求める10の措置
第33条第4項に基づき、事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号、令和8年2月26日告示)が定められた。義務として求められる措置は次の5類型10項目である。
- 方針の明確化と周知・啓発
- カスハラには毅然とした態度で対応し労働者を保護する旨の方針を明確化し、管理監督者を含む労働者に周知・啓発する
- カスハラの内容とあらかじめ定めた対処の内容を、管理監督者を含む労働者に周知する
- 相談に応じ適切に対応するために必要な体制の整備
- 相談窓口をあらかじめ定め、労働者に周知する
- 相談窓口の担当者が、内容や状況に応じ適切に対応できるようにする
- 事後の迅速かつ適切な対応
- 事案に係る事実関係を迅速かつ正確に確認する
- 被害者に対する配慮のための措置を適正に行う
- 再発防止に向けた措置を講ずる
- 対応の実効性を確保するために必要な抑止のための措置
- 特に悪質と考えられるものへの対処の方針をあらかじめ定めて労働者に周知し、その対処を行うことができる体制を整備する
- 併せて講ずべき措置
- 相談者のプライバシーを保護するために必要な措置を講じ、その旨を労働者に周知する
- 相談したことなどを理由として不利益な取扱いをされない旨を定め、労働者に周知・啓発する
このうち4の抑止措置は、パワハラ指針には対応する項目がない。指針が挙げる対処の例は、犯罪に該当しうる言動についての警察への通報、行為者に対する警告文の発出、法令の制限内での商品販売やサービス提供の停止、店舗や施設への出入禁止、民事保全法に基づく仮処分命令の申立てである。従来「望ましい取組」にとどまっていた領域が、実施体制の整備まで含めて義務の内容に取り込まれた点が最大の変化である。
なお指針は、消費者法制が定める消費者の権利、および障害者差別解消法が定める不当な差別的取扱いの禁止と合理的配慮の提供義務に留意すべきことを明示する。障害者が不当な差別的取扱いをしないよう求めることや、社会的障壁の除去を必要としている旨の意思を表明すること自体は、カスハラには当たらない。各業法によりサービス提供義務が定められている場合や、サービスの途絶が顧客の生命や心身の健康に重大な影響を及ぼす場合にも同様の配慮が求められる。
不利益取扱いの禁止(第33条第2項)
保護の対象は、相談を行った労働者と、相談への対応に協力して事実を述べた労働者の双方である。目撃者として聴取に応じた労働者も含まれる点に注意を要する。
さらに、法第36条第2項および第37条第2項により、都道府県労働局長に紛争解決の援助を求めたこと、調停を申請したことを理由とする不利益取扱いも禁止される。改正前は第30条の2第2項を準用する形式であったが、改正により各条に直接の禁止規定を置く形に整理された。
派遣労働者との関係では、派遣先が、派遣労働者からカスハラの相談を受けたことを理由として当該派遣労働者に係る労働者派遣の役務の提供を拒むことも、禁止される不利益取扱いに含まれる。
他の事業主への協力(第33条第3項)
自社の労働者や役員が他社の労働者にカスハラを行った場合に、被害側事業主から事実確認への協力を求められたときの努力義務である。指針は、協力を求められたことを理由として契約を解除するなどの不利益取扱いを行うことは望ましくないとし、協力に応じた自社労働者に対して不利益取扱いを行わない旨を定めて周知することが望ましいとする。事実が確認できた場合には、就業規則の規定に基づき行為者に懲戒その他の措置を講ずることが望ましいとされる。
紛争解決手続と行政措置
第35条により、第33条第1項・第2項に関する労働者と事業主の紛争は、個別労働関係紛争解決促進法のあっせんの対象から外れ、法第36条の都道府県労働局長による助言・指導・勧告、および法第37条の調停の対象となる。調停は紛争調整委員会(機構としては両立支援・均等調停会議)が行う。
行政による履行確保は、法第42条第1項の助言・指導・勧告と、同条第2項の公表による。勧告を受けた事業主がこれに従わなかったときに、その旨を公表することができる。措置義務違反そのものに刑罰は科されない。ただし、法第45条第1項に基づく報告の求めに応じず、または虚偽の報告をした場合には、法第51条の下記の定めのように、20万円以下の過料に処せられる。
(報告の請求)
第四十五条 厚生労働大臣は、事業主から第三十一条第一項及び第二項、第三十三条第一項及び第二項、第三十六条第二項並びに第三十七条第二項の規定の施行に関し必要な事項について報告を求めることができる。
第五十一条 第四十五条第一項の規定による報告をせず、又は虚偽の報告をした者は、二十万円以下の過料に処する。
公務員への適用関係
下記の法第48条により、国家公務員および地方公務員については、第35条から第39条までの紛争解決手続、第42条第1項のうち第10章の施行に関するものおよび同条第2項、第45条第1項が適用されない。他方、第33条および第34条の適用自体は排除されておらず、地方公共団体も一事業主として措置義務を負う。
(適用除外)
第四十八条 第六条から第九条まで、第六章(第二十七条を除く。)、第七章、第三十五条から第三十九条まで、第四十二条第一項(第十章の規定の施行に関するものに限る。)及び第二項並びに第四十五条第一項の規定は国家公務員及び地方公務員について、第八章及び第三十一条から第三十四条までの規定は一般職の国家公務員(行政執行法人の労働関係に関する法律(昭和二十三年法律第二百五十七号)第二条第二号の職員を除く。)、裁判所職員臨時措置法(昭和二十六年法律第二百九十九号)の適用を受ける裁判所職員、国会職員法(昭和二十二年法律第八十五号)第一条に規定する国会職員及び自衛隊法(昭和二十九年法律第百六十五号)第二条第五項に規定する隊員については、適用しない。
一般職の国家公務員、裁判所職員、国会職員、自衛隊員については、第31条から第34条までの適用が除外され、人事院規則などによる別の枠組みによる。地方公共団体向けには、総務省から令和8年4月27日付け総行女第14号が発出されており、法第10章の規定と関連規定、改正省令、カスハラ防止指針の趣旨と取扱いが示されている。厚生労働省の施行通達は令和8年4月24日付け雇均発0424第2号である。
残された課題
下記の改正法附則第8条の2は、フリーランスが受託業務において受けるカスハラについて、施策を検討し必要な措置を講ずる旨の検討条項を置く。特定受託事業者は「労働者」ではないため第33条の保護が及ばず、今回の改正では立法的手当てが見送られた。指針は、事業主が雇用する労働者以外の者に対する「顧客等」の言動についても同様の方針を示すこと、これらの者から相談があった場合に必要に応じ適切な対応を行うよう努めることが望ましいとするにとどまる。
※第八条の二 政府は、特定受託事業者(特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律(令和五年法律第二十五号)第二条第一項に規定する特定受託事業者をいう。以下この条において同じ。)が受けた業務委託(同法第二条第三項に規定する業務委託をいう。)に係る業務において行われる顧客、取引の相手方、施設の利用者その他の当該業務に関係を有する者の言動であって、当該特定受託事業者に係る特定受託業務従事者(同条第二項に規定する特定受託業務従事者をいう。以下この条において同じ。)が従事する業務の性質その他の事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えたものにより当該特定受託業務従事者の就業環境が害されることのないようにするための施策について検討を加え、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとする。
5 判例・裁判例
第33条・第34条は未施行であり、これらの条文自体を適用した裁判例は存在しない。もっとも、カスハラをめぐる紛争は、これまで労働契約法第5条の安全配慮義務、および行為者に対する不法行為責任の枠組みで処理されてきた。措置義務の内容は、これらの裁判例が事業主に求めてきた対応をおおむね明文化したものであり、施行後は義務違反の事実が安全配慮義務違反の判断に直結すると考えられる。
甲府市・山梨県(市立小学校教諭)事件
甲府地判平成30年11月13日。児童宅を訪問した小学校教諭が飼い犬に咬まれて負傷した後、校長から保護者への謝罪を求められ、膝をついて謝罪する場面に至った。教諭はうつ病を発症して休職し、地方公共団体に対する損害賠償請求が一部認容された(認容額は約296万円とされる)。
保護者からの理不尽な要求という外部からの加害に対し、被害者である労働者に謝罪させて事態を収めようとした管理職の対応が違法と評価された点に意義がある。厚生労働省のカスタマーハラスメント対策企業マニュアルにも紹介されている。指針が求める「毅然とした態度で対応し労働者を保護する旨の方針」の明確化は、まさにこの種の失敗を防ぐための措置である。
※判例集の登載箇所は労働判例1202号95頁とする文献がある。
食品スーパー・レジ担当従業員事件
東京地判平成30年11月2日。接客態度を不満とする顧客から大声でなじられるなどの被害を受けた従業員が、正社員の配置や入店拒否措置を怠ったとして使用者の責任を追及した事案である。
裁判所は、入社テキストによる初期対応の指導、サポートデスクや近隣店舗・エリアマネージャーへの連絡体制、深夜時間帯の2名体制の確保を評価し、安全配慮義務違反を否定した。また、事業主が客からの退職要求には応じず、双方に関係修復を働きかけ、再発時には入店拒否の可能性を伝えて来店が止んだ経緯について、穏便な措置から順次実施していたと評価し、早期に入店拒否措置を採るべき義務はないとした。
体制の整備と段階的な対応が使用者を免責しうることを示した先例であり、指針の措置を現実に運用していれば足りるという実務上の見通しを与える。
NHK委託コールセンター事件
横浜地川崎支判令和3年11月30日。わいせつ電話や暴言を頻繁に受けていたオペレーターが、刑事・民事の法的措置を採るべき義務の違反を主張した事案で、通話モニタリングと対応困難な通話の引継ぎ体制が整備されていたことなどから、請求は認められなかった。
電話やインターネット上の言動も第33条の射程に含まれる以上、通話記録の管理とエスカレーション体制は、施行後は措置義務の履行そのものとして位置づけられる。
大阪市面談強要行為差止事件
大阪地判平成28年6月15日。大阪市に対する多数回にわたる濫用的な情報公開請求を含む面談強要行為について、差止請求が認容され、損害賠償請求も一部認容された。
判決は、法人の業務を妨害する行為が、権利行使として相当と認められる限度を超え、資産の本来的な利用を著しく害し、業務従事者に受忍限度を超える困惑や不快を与えるなど支障の程度が著しく、事後的な損害賠償によるだけでは回復困難な重大な損害が生ずると認められる場合には、平穏に業務を遂行する権利に基づく差止めを請求できると判示した。
指針が抑止措置の例として仮処分命令の申立てを挙げる法的な基礎がここにある。行政対象暴力への対応を検討する自治体にとって、実務上の指針となる判断である(当事務所の解説は下記参考資料を参照されたい)。
企業間取引におけるカスハラ
医療機器販売会社の従業員2名が、最大手顧客である病院の担当者からカッターナイフを手の甲に当てられる、携帯電話のネックストラップで首を絞められるなどの暴行・脅迫を受け、行為者に対する不法行為責任と病院に対する使用者責任を追及した事案がある。行為者には刑事上の有罪判決も確定していた。
第33条の「顧客等」に取引の相手方が含まれ、第34条第2項・第3項が自社の労働者と役員に対して他社労働者への注意を求めるのは、この種の事案を念頭に置くものである。
6 実務上の留意点
- 就業規則・服務規律の整備 指針は、相談などを理由とする不利益取扱いの禁止について、就業規則その他の服務規律を定めた文書に規定して周知することを適合例とする。令和8年10月1日までに規定の追加を検討されたい。
- 対処方針の具体化 方針の明確化は、抽象的な宣言では足りない。現場で誰に報告し、誰が代わって対応し、どの段階で録音・録画や警察への通報に移行するかを、あらかじめ文書化する必要がある。指針は、労働者を一人で対応させないこと、十分な説明を尽くしてもなお要求が続く場合に一定の時間の経過をもって退店を求めまたは電話を切ることを例示する。
- 録音・録画と個人情報 録音・録画を行う場合は個人情報保護法を遵守し、顧客の個人情報を適切に取り扱う必要がある。取得目的の掲示と保存期間の設定を運用ルールに落とし込むことになる。
- 正当な申入れとの線引き 商品やサービスの不備に対する常識的な範囲の申出は正当な権利行使であり、拒絶の対象ではない。障害を理由とする合理的配慮の求めについても同様である。窓口担当者が線引きを誤ると、別の法的紛争を招く。研修では、要求内容の妥当性と手段・態様の相当性という2つの軸で判断する訓練を行うことが有効である。
- 相談窓口の設計 パワハラ、セクハラ、妊娠・出産に関するハラスメントの窓口と一体的に設置することが認められている。外部機関への委託も適合例とされる。
- 派遣労働者への対応 派遣先は派遣労働者についても自社の労働者と同様に措置を講ずる必要がある。派遣元との間で、相談受付の窓口と情報共有の手順を事前に取り決めておくことが望ましい。
- 業種特性への適応 指針は、業種・業態により被害の実態と必要な対応が異なることを前提に、同業の複数の事業主が一体となって取り組むことも考えられるとする。厚生労働省は業種別の企業マニュアルを公表しており、これを自社の対処方針の下敷きとする方法が実際的である。
⇒https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_55395.html(スーパーマーケット編)など複数公表中である。 - 名札表示の見直し 労働者が身に付ける名札から個人が特定されて攻撃対象とされる被害を踏まえ、名札の表示方法を変更する企業や自治体が増えている。抑止措置の一環として検討に値する。
7 参考資料
- 厚生労働省「令和7年の労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(労働施策総合推進法)等の一部改正について」 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/zaitaku/index_00003.html
- 令和7年法律第63号 条文・理由 https://www.mhlw.go.jp/content/001502753.pdf
- 同 新旧対照条文 https://www.mhlw.go.jp/content/001502755.pdf
- 事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号) https://www.mhlw.go.jp/content/001662625.pdf
- 施行期日を定める政令(令和8年政令第17号) https://www.mhlw.go.jp/content/001662631.pdf
- リーフレット(詳細版)「2026年(令和8年)10月1日から、カスタマーハラスメント対策、求職者等に対するセクシュアルハラスメント対策が義務化されます!」 https://www.mhlw.go.jp/content/001662630.pdf
- 総務省「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律の施行について」(令和8年4月27日総行女第14号) https://www.soumu.go.jp/main_content/001070950.pdf
- 政府広報オンライン「カスハラとは?法改正により義務化されるカスハラ対策の内容」 https://www.gov-online.go.jp/article/202510/entry-9370.html
- 厚生労働省「あかるい職場応援団」ハラスメント裁判事例 https://www.no-harassment.mhlw.go.jp/
- 東京都「TOKYOノーカスハラ支援ナビ」判例から学ぶカスハラ対策 https://www.nocushara.metro.tokyo.lg.jp/precedents3/
- 中川総合法務オフィス「自治体へのハードクレーマーに対し行為の差し止めと損害賠償をともに認めた大阪地裁判決」 https://compliance21.com/complaints-to-local-governments/
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