はじめに――「法の転換点」に立つ建設業界
2025年12月12日、「建設業法及び公共工事の入札及び契約の適正化の促進に関する法律の一部を改正する法律」(令和6年法律第49号)の全規定が施行された。2024年6月14日の公布から約1年半をかけて段階的に整備されてきたこの改正は、建設業界の担い手確保という喫緊の課題に正面から向き合うものである。
人口動態を俯瞰すれば事態の深刻さは明白である。建設業の就業者数は1997年の685万人から2023年には483万人へと約3割減少し、技能者の55歳以上が全体の36.6%を占める一方で29歳以下はわずか11.6%にとどまる。これは単なる産業論に留まらない。インフラの老朽化、頻発する大規模自然災害、そして急速に進む都市再生の需要――建設業が地域の守り手としての役割を果たせなくなれば、社会の基盤そのものが揺らぐ。哲学者ヘーゲルは「法は自由の現実態である」と述べたが、今回の法改正は、不公正な取引慣行という「不自由」を排除し、建設業に携わるすべての人間が尊厳をもって働ける社会秩序を法の力で構築しようとする試みである。
以下では、改正の柱となる各論点を実務的な視点から丁寧に解説する。
1. 改正の三本柱――全面施行の構造を理解する
今回の改正は以下の三段階で施行された。
第1段階(2024年9月1日施行) 中央建設業審議会(以下「中建審」)による建設工事の労務費に関する基準の作成・勧告権限の整備、並びに建設業者に対する労働者処遇確保の責務明確化(建設業法第20条・第34条)。
第2段階(2024年12月13日施行) 契約前のリスク情報提供義務化、請負代金の変更方法の法定記載事項化、契約後の変更協議に関する誠実協議義務の導入、現場技術者の専任義務合理化、ICT活用の努力義務化。
第3段階(2025年12月12日施行) 著しく低い材料費・労務費による見積り・契約の禁止(受注者・発注者双方)、受注者による原価割れ契約の禁止、工期ダンピング対策の強化(著しく短い工期による契約締結を受注者にも禁止)、見積書・入札金額内訳書への記載事項明記、違反発注者への国土交通大臣等による勧告・公表権限の新設。
この第3段階こそが、建設業の「商慣行の骨格」に直接メスを入れるものである。
2. 標準約款の大改定――中建審の役割と法的位置付け
2-1. 標準約款はなぜ特別なのか
建設工事の請負契約は民法上の契約の一種であり、契約自由の原則(民法第521条)が基本的には妥当する。しかし、建設業法第34条第2項は中央建設業審議会に対し、「建設工事の標準請負契約約款」を作成し、その実施を勧告する権限を付与している。これは他の多くの産業には見られない特別な法的仕組みであり、建設業が公共性の高い社会基盤産業であることの反映である。
すなわち、中建審が策定した標準約款は単なる民間の「雛形」ではなく、国家機関が「こうあるべき」と勧告した規範的文書であり、国土交通省のガイドラインもこれに準拠することを原則としている。建設業に携わる事業者がこの約款の枠組みから大きく外れた契約を締結することは、法の精神に反するのみならず、実務的なリスクを高める行為であることを肝に銘ずるべきだ。
2-2. 四種類の標準約款の体系
標準約款は主に四種類に整理される。
第一は、中建審が作成する「公共工事標準請負契約約款」である。国・地方公共団体が発注する公共工事に適用される。第二・第三は、同じく中建審が作成する「民間建設工事標準請負契約約款(甲)」(大規模工事向け)と「(乙)」(中小規模工事向け)である。第四は、「建設工事標準下請契約約款」であり、元請・下請間の契約に適用される。これらはすべて今回の改正建設業法の全面施行を受けて改定の方針が2025年12月2日の中建審総会で示された。
公共工事であれ民間工事であれ、重層的な下請構造の中で発注者と最初の受注者(元請)の契約がすべての出発点となる。ここでの契約が不適正であれば、その歪みは下請・孫請へと連鎖する。契約書の質が業界全体の体質を規定するのである。
3. コミットメント条項の新設――労務費保護の「約束」を法的に担保する
3-1. 標準労務費とは何か
2025年12月の改正全面施行に合わせ、中建審は「労務費の基準(標準労務費)」を作成・勧告した。これは北海道から沖縄まで47都道府県・51職種別に、技能者の賃金水準の目安となる基準値を設定するものである。例えば、東京都での型枠工事であれば1㎡当たり5,291円といった具体的な数値が示されており、価格交渉の「物差し」として機能する。
この基準値に法的拘束力はないが、基準を著しく下回る見積りや契約は建設業法違反として指導・監督、さらには「建設Gメン」による立入調査の対象となる。国が労務費の相場形成に直接関与するという、日本の産業法制史上きわめて異例の仕組みである。
3-2. コミットメント条項の内容
今回の標準約款改定の目玉の一つが「コミットメント条項(約束条項)」の新設である。受注者が注文者に対し、直用の技能者や直接の下請業者への適正な賃金・労務費の支払いを約束する条項であり、注文者側は支払いに関する情報開示(賃金支払いの誓約書・下請契約書の写し等)を受注者に請求できる。条文はその約束のレベルに応じて「A」と「B」の二段階に分けられ、任意で選択できる形式をとる。
これはまさに、法と経済の「哲学的連携」である。アダム・スミスが『国富論』で論じたように、市場の公正な機能は自由放任だけでは実現されない。適正な制度的枠組みの中でこそ、労働の価値は正当に評価される。コミットメント条項は、その制度的枠組みを契約の場に落とし込む装置である。
コミットメント条項を盛り込んだにもかかわらず守らなかった場合は、勧告・指導の対象となる。これを単なる「努力義務」と同視してはならない。
4. 代金・工期の変更協議――「力の非対称性」を是正する新ルール
4-1. 旧来の慣行が招いたもの
建設業界では長年にわたり、資材が高騰しても代金変更を認めない、工期短縮を強要する、変更方法の規定を契約書に置かないといった慣行が横行してきた。強者(発注者)が弱者(受注者・下請)に一方的なリスクを押し付ける構造である。これは法的に見ても許されないが、「取引関係を壊したくない」という受注者側の心理的萎縮が温床を作ってきた。
自由主義経済における契約は対等な当事者間の合意を前提とする。しかし現実の市場には力の非対称性が存在する。それを法的に矯正するのが今回の改正の眼目である。
4-2. 二段構えの変更協議ルール
改正建設業法は、変更協議を「二段構え」で設計している。
まず契約前段階では、受注者は資材価格変動等のリスク情報を注文者に提供する義務を負い、契約書には「請負代金額等をどのように変更するかについての定め」を法定記載事項として明記しなければならない。次に契約後の段階では、請負代金や工期に影響を及ぼす事象が生じた場合、受注者は変更の申し出ができ、注文者はこれに誠実に協議に応ずる義務を負う(公共発注者については協議応諾義務が一層強化されている)。
この仕組みは、単なる権利義務の問題ではない。持続可能なサプライチェーンの形成という経営倫理の問題でもある。自社だけが潤えばよいという近視眼的な思考は、結果として業界全体の体力を損ない、最終的には自らにも跳ね返ってくる。経営判断とは、目先の利益と長期的な持続可能性を統合する知的営みである。
5. 見積書・内訳書の記載義務――「透明性」が信頼を生む
改正法では、建設工事の見積書に「工事の種別ごとの材料費、労務費その他の経費の内訳」(建設業法第20条)を記載する努力義務が課された。公共工事の入札においては入札金額の内訳書についても記載事項が明記された。また、社会保険料(法定福利費)の内訳を明示し、労務費とその他経費を明確に区分することが求められる。
私が現場でコンプライアンス研修を行う中で、この切り替えがいまだ完全には浸透していないと感じている。実感では、完全移行は令和8年(2026年)中になるであろう。しかし「まだ周りもやっていないから」という横並び意識は、コンプライアンスにおいて最も危険な思考回路である。法の施行は既に完了している。実務の対応が追いついていない状態は、企業にとってリスクそのものである。
6. 反社会的勢力排除――業界の「リスク管理の要」
標準約款の改定には、反社会的勢力に関する条項の整備も含まれる(民間連合協定約款にはすでに規定されていたが、中建審の標準約款にも明示されることとなった)。
私は長年、関西・京都・大阪という、日本でも指折りの反社会的勢力の活動が活発な地域でコンプライアンス実務に携わってきた。顧問先・研修先でも、反社会的勢力との接触はきわめて日常的なリスクとして存在する。建設業は、その業態上、様々な業者・人物との接点を持ちやすい。だからこそ、契約締結前の取引先調査(反社チェック)、契約書への排除条項の明記、そして従業員への継続的な教育が不可欠である。
反社会的勢力はその外観を巧みに変化させる。企業コンプライアンスにおける反社対策は、「一度やれば終わり」の性質のものではなく、継続的なアップデートが求められる。
7. カスタマーハラスメントへの対応――「社内への義務」という経営倫理
7-1. カスハラとは何か、そしてなぜ今
カスタマーハラスメント(カスハラ)とは、顧客・発注者等が事業者の従業員に対し、社会通念上相当な範囲を超えた言動によって就業環境を害する行為である。2025年6月4日、「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」(労働施策総合推進法)の改正法が可決・成立し、カスタマーハラスメント対策が事業主の「雇用管理上の措置義務」として法定化された。違反した場合には助言・指導・勧告・公表の対象となる。施行は2026年10月が見込まれている。
建設業においても、強大な発注者や元請から下請業者の従業員に対する過剰な要求、威圧的な言動は珍しくない。また、住民対応の場面でのカスハラも現実に存在する。
7-2. 「ステークホルダー」としての従業員
私が講演や研修の場で繰り返し強調することがある。「自分の会社のステークホルダーは誰か」という問いに対し、多くの経営者は発注者・取引先を真っ先に挙げる。しかし、自社の従業員も紛れもなくステークホルダーである。従業員の心身の安全と働きがいを守ることは、コンプライアンスの問題であると同時に、持続可能な経営の根幹をなすものだ。
カスタマーハラスメントを放置することは、単に従業員を傷つけるだけでなく、人材の流出を招き、企業の競争力そのものを蝕む。今回の改正建設業法で標準約款に「迷惑行為禁止」に関する規定が設けられたことは、このような経営倫理の問題が法制化された証左である。
パワハラ・セクハラ・マタハラとともに、カスタマーハラスメントへの対応は現代企業に課された四つ目の義務として位置付けるべきである。
8. 「原価割れ禁止」と工期ダンピング対策――市場の健全化へ
今回の第3段階施行の核心は、三つの禁止規定の強化である。
著しく低い材料費等の見積り等の禁止: 受注者が著しく低い材料費・労務費による見積りを提出すること、また注文者がそれを依頼することを禁止。違反した場合は国土交通大臣等の勧告・公表の対象となる。勧告対象となる請負契約の下限額は500万円(建築一式工事は1,500万円)と政令で定められた。
受注者による原価割れ契約の禁止: 受注者が不当に低い請負代金での契約締結を行うことを禁止。これは「廉売による市場破壊」に歯止めをかける措置であり、技能者への賃金原資を喰い潰す「ダンピング受注」が法的制裁の対象となった。
工期ダンピング対策の強化: 著しく短い工期による契約締結が発注者・受注者双方に禁止された。「建設Gメン」が各地方整備局に配置されており、違反が確認された場合は指導・監督・勧告が行われる。
これらは「昔ながらのやり方」の終焉を法的に宣言したものである。強者の論理が弱者に一方的なリスクと犠牲を押し付けてきた構造は、経済全体の発展を阻害する。建設業が日本経済のインフラを支える産業である以上、その健全化は国民全体の利益に直結する。
9. 実務上の対応指針――コンプライアンス態勢の再点検
以上の改正を踏まえ、建設業に関わる事業者が直ちに取り組むべき実務対応を整理する。
契約書・見積書の全面見直し: 標準約款の改定内容を踏まえ、自社の契約書ひな型・見積書様式を更新する。労務費・社会保険料の内訳明示、変更協議条項の盛り込みが急務である。
コミットメント条項の導入検討: 取引先との関係において、コミットメント条項(A型・B型)のどちらが適切かを検討し、段階的に導入する。
反社チェック体制の整備: 取引先調査の定期的実施と、契約書への反社排除条項の明示を徹底する。
カスハラ対策方針の策定: 社内外への周知、相談窓口の設置、対応マニュアルの整備を進める。2026年10月の措置義務化までに体制を整えることが求められる。
継続的な研修と情報更新: 改正法の内容は複雑かつ多岐にわたる。経営者・管理職・現場担当者それぞれの階層に応じたコンプライアンス研修を継続的に実施することが不可欠である。
おわりに――法の精神と経営倫理の統合
ソクラテスは「法に従う義務は、その法が正義に適っているからではなく、その社会に生きることを選んだ自らの選択に基づく」と述べた。建設業法の改正は、法への義務的服従を求めているだけではない。その根底にあるのは、「人が人として尊厳をもって働ける産業を次世代に引き渡す」という、より高い次元の社会的使命である。
「担い手のいない建設業に、日本の未来はない」――これは法律論ではなく、日本社会の存続に関わる問いである。改正法の「文字」を読むだけでなく、その「精神」を経営の核心に据えてほしい。形式的なコンプライアンスは最低限の義務であり、真のコンプライアンスとは、法の精神と経営倫理を統合した組織文化の醸成にある。
ご相談・コンプライアンス研修のご依頼
中川総合法務オフィス 代表 中川 恒信(行政書士)は、建設業・IT・地方公共団体・スポーツ団体など多様な分野で、これまで850回を超えるコンプライアンス研修・ガバナンス研修を担当してきた実績を有する。
単に法律の条文を解説するだけでなく、反社会的勢力との対峙、カスタマーハラスメントの現場対応、内部通報制度の設計・運営など、豊富な実体験に基づいた実践的な研修が特色である。不祥事を起こした組織のコンプライアンス態勢の再構築支援も手がけており、組織の「体質改善」から寄り添う長期的なコンサルティングが可能である。また、現在も複数の企業・団体において内部通報の外部窓口を実際に担当しており、制度の構築から運用まで一貫した支援を提供している。さらに、不祥事企業の再発防止策についてマスコミ各社から意見を求められることも多く、社会的な信頼と認知を得ているコンプライアンスの専門家である。
改正建設業法への対応、標準約款の見直し、反社対策・カスハラ対策の研修設計など、初回相談は電話でも受け付けている。
研修費用の目安:1回30万円~(内容・時間・対象規模により応相談)
お問い合わせ
- 📞 電話:075-955-0307
- 🌐 相談フォーム:https://compliance21.com/contact/
建設業界の法的課題、コンプライアンス体制の整備、従業員研修の充実に本気で取り組もうとする経営者・担当者の相談を歓迎する。
参考:国土交通省「持続可能な建設業の実現のため、建設業法等改正法が完全施行されます」(令和7年12月12日)/中央建設業審議会「建設工事標準請負契約約款の改正方針(2025年12月2日総会)」/国土交通省「改正建設業法に基づく「労務費の基準」について」/労働施策総合推進法改正(2025年6月4日成立)

