1 条文原文
(弁済のための相続財産の換価) 第九百三十二条 前三条の規定に従って弁済をするにつき相続財産を売却する必要があるときは、限定承認者は、これを競売に付さなければならない。ただし、家庭裁判所が選任した鑑定人の評価に従い相続財産の全部又は一部の価額を弁済して、その競売を止めることができる。
(相続債権者及び受遺者の換価手続への参加) 第九百三十三条 相続債権者及び受遺者は、自己の費用で、相続財産の競売又は鑑定に参加することができる。この場合においては、第二百六十条第二項の規定を準用する。
(不当な弁済をした限定承認者の責任等) 第九百三十四条 限定承認者は、第九百二十七条の公告若しくは催告をすることを怠り、又は同条第一項の期間内に相続債権者若しくは受遺者に弁済をしたことによって他の相続債権者若しくは受遺者に弁済をすることができなくなったときは、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。第九百二十九条から第九百三十一条までの規定に違反して弁済をしたときも、同様とする。
2 前項の規定は、情を知って不当に弁済を受けた相続債権者又は受遺者に対する他の相続債権者又は受遺者の求償を妨げない。
3 第七百二十四条の規定は、前二項の場合について準用する。
2 趣旨・立法背景
第932条(換価の方法と先買権)
限定承認における弁済は相続財産の限度でのみ行われる。現金以外の財産(不動産・動産・有価証券等)で債権を直接弁済することは原則として認められず、換価して得た金銭を弁済に充てる構造が採られている。換価を任意売却に委ねると、限定承認者が意図的に低額で財産を処分して弁済原資を圧縮し、相続債権者・受遺者が不当な不利益を被る危険がある。そこで本条本文は、競売という公開・透明な手続によって換価することを義務づけた。競売は非当事者が入札に参加できる仕組みであり、恣意的な価格操作が入り込む余地を排除するという機能がある。
一方で、競売にすべての相続財産が付されると、生家・事業用設備・農地・骨董品のように相続人が継続使用を希望する財産を確実に確保できないという不都合が生じる。そこでただし書が、家庭裁判所の選任した鑑定人の評価額を限定承認者が固有財産から弁済することで、当該財産の競売を止めることを認めた。これが学説・実務において「先買権(さきがいけん)」と呼ばれる権利である。先買権の行使により、限定承認者は鑑定評価額相当の現金を相続財産(清算口座)に払い込むことで、対象財産の権利を取得する。債権者側からみれば、競売で競落価格が不確定になるよりも適正価格の現金を確実に受領できるため、経済的合理性に反しない。
なお、本条は非訟事件手続法(相続財産競売の申立手続)や家事事件手続法上の鑑定人選任申立(家事事件手続法第200条以下)と連動して運用される。
第933条(債権者・受遺者の手続参加権)
換価手続(競売・鑑定)の公正性は、競売・鑑定の対象となる財産の価値評価が適切であるかどうかに直結する。限定承認者と債権者・受遺者の利益は基本的に対立するため、限定承認者のみが手続を主導する構造では恣意的な運用が抑止されない。本条は、相続債権者および受遺者に対し、競売または鑑定への参加権を明示的に保障した。手続参加は自己の費用負担であり、参加したことで弁済順位や弁済額が変動するわけではないが、競売の進行確認・鑑定評価額の確認・異議の機会を確保できる実質的意義がある。
第260条第2項の準用は、共有物分割における第三者の参加手続を念頭に置いたものである。同項は「参加の請求があったにもかかわらず、その請求をした者を参加させないで分割をしたときは、その分割は、その請求をした者に対抗することができない」と定める。933条後段でこれを準用することにより、参加申出をした相続債権者・受遺者を排除して競売または鑑定が実施された場合、その手続の結果を当該債権者・受遺者に対抗できないという法的効果が生じる。
第934条(不当弁済の責任・求償・時効)
限定承認者は、公告・催告(第927条)→ 弁済順序(第929条〜第931条)というルールのもとで弁済を実施する義務を負う。このルールを破って弁済した場合、本来弁済を受けられたはずの他の相続債権者・受遺者に損害が生じる。第1項は、(a)公告・催告義務の懈怠、(b)公告期間内の弁済、(c)第929条〜第931条の弁済順序違反という3つの違反態様を列挙し、限定承認者が損害賠償責任を負うことを明らかにした。
第2項は、違反弁済を受けた相続債権者・受遺者が事情を知って不当に受領した場合、他の相続債権者・受遺者はその者に直接求償できることを定める。これにより、損害填補ルートが①限定承認者への損害賠償(第1項)と②不当受領者への求償(第2項)の二経路から構成される。
第3項は、第724条(不法行為による損害賠償請求権の消滅時効)を準用する。第1項および第2項の責任の性質は不法行為に類似した損害賠償責任であり、短期消滅時効と長期期間(不法行為の時から20年)の双方を適用することが立法上の判断として採用されている。なお、改正債権法(令和2年4月1日施行)後の第724条は、「損害及び加害者を知った時から3年間」(第724条第1号)および「不法行為の時から20年間」(第724条第2号)の消滅時効を定め、除斥期間ではなく時効として構成されている。
3 用語解説
競売(きょうばい)
裁判所または公的機関の監督のもと、一般に入札参加を開放して財産を売却する手続。限定承認における相続財産の競売は、非訟事件手続法第195条が「担保権の実行としての競売の例による」と規定しており、民事執行法上の担保不動産競売に準じる。競売では、民事執行法第63条(無剰余取消)の規定も準用されることが判例上確認されている(競売申立のための相続登記を限定承認者名義で先行させる実務が定着している)。
鑑定人
家庭裁判所が選任した専門家で、相続財産の価値を客観的に評価する者。不動産については不動産鑑定士、動産・骨董品等については専門的知識を有する者が選任されることが多い。鑑定人の選任申立費用および鑑定費用は、申立を行った限定承認者の個人負担となる(相続財産からの支出ではない)。
先買権(さきがいけん)
第932条ただし書に基づき、限定承認者が鑑定評価額を固有財産から支払って特定の相続財産を取得できる権利。「競売を止めることができる」という条文の文言は、単に競売手続を中止させるという意味にとどまらず、対象財産の所有権を取得する実体法上の権利を認めたものと解されている(中島弘雅『新注釈民法(19)』)。先買権の行使が完了した後の登記原因は「民法932条ただし書による価額弁済」とされる。
みなし譲渡所得課税
限定承認をして相続が開始した場合、被相続人が相続開始時の時価で資産を譲渡したものとみなす課税(所得税法第59条第1項第1号)。被相続人の取得価額から相続開始時の時価まで上昇した含み益(キャピタルゲイン)が課税対象となる。換価前に譲渡所得税の負担額を試算することが実務上の前提作業となる。
情を知って
不当な弁済が行われていること、すなわち弁済の手続的瑕疵(公告期間内弁済・優先順位違反等)を認識していたこと。この認識は受領時点において存在することが求められる。
求償
他者が自己の負担すべき債務を弁済した場合等に、その者に対して費用・損害の返還を請求すること。第934条第2項では、不当受領者に対して他の相続債権者・受遺者が直接行使できる権利として位置づけられている。
4 関連条文の構造
第932条〜第934条は、限定承認における弁済手続の後半部分(換価→参加→責任)を規律する連続した規定群であり、前後の条文と次のように連携する。
| 条文 | 内容 | 機能 |
|---|---|---|
| 第927条 | 公告・催告義務 | 弁済手続の起点 |
| 第929条〜第931条 | 弁済の優先順序 | 弁済の実施基準 |
| 第932条 | 換価方法(競売・先買権) | 換価手続の規律 |
| 第933条 | 債権者・受遺者の参加権 | 換価の公正確保 |
| 第934条 | 不当弁済の責任と求償 | 違反に対する制裁と補填 |
| 第935条 | 申出期間内に申出をしなかった者の扱い | 換価後の帰結 |
5 判例・裁判例
競売と民事執行法第63条の準用(無剰余取消)
相続財産の競売手続に民事執行法第63条(無剰余取消)が適用されるか否かについて、裁判例は適用を肯定する方向を採る。根拠として、非訟事件手続法第195条が「担保権の実行としての競売の例による」と定め、同法同条が民事執行法第63条を何ら留保なく準用していることが挙げられる(大阪高裁ほか)。実務上、担保権者の被担保債権額が相続財産の価値を上回る場合、競売手続が無剰余を理由に取り消される可能性がある点に留意が必要である。
先買権の法的性質
第932条ただし書の「競売を止めることができる」という規定は、競売手続の停止・中止という手続法的効果にとどまらず、鑑定評価額の支払いにより対象財産の権利を取得できるという実体法上の権利(先買権)を認めた趣旨と解されている。先買権は、限定承認者が相続財産の価値を適正に認識したうえで行使するか否かを任意に判断できるものであり、鑑定人の選任申立をして鑑定評価額が確定しても、それだけでは先買権行使の義務は生じない。(中島弘雅『新注釈民法(19)』)
任意売却と手続違背の効力(東京高判昭和15年4月30日・法律学説判例評論全集29巻民法545頁)
限定承認者が競売によらず任意売却で相続財産を換価した場合、これは第932条本文の手続違背ではあるが、限定承認それ自体の効力には影響がないとした裁判例がある。ただし、任意売却によって相続債権者・受遺者に損害が生じた場合は第934条の損害賠償責任が発生する余地があり、手続違背が直ちに限定承認を失効させるわけではない点と損害賠償責任の発生とは別個の問題として整理される。
第260条第2項の準用と対抗不能の意味
第933条の「対抗することができない」という効果は、参加申出をした相続債権者・受遺者を除外して競売・鑑定を実施した限定承認者について、不法行為に基づく損害賠償責任が生じると解されている。参加を阻害された债権者・受遺者に実際の損害(適正価格からの下落差額など)が生じた場合、限定承認者はその損害を賠償しなければならない。(中島弘雅『新注釈民法(19)』)
第724条の準用と時効の起算点
第934条第3項が準用する第724条(令和2年改正後)のもとで、損害賠償請求権の消滅時効は「損害及び加害者を知った時から3年間」(第1号)または「不法行為の時から20年間」(第2号)のいずれか早い方が到来した時点で消滅する。改正前は20年間の期間を除斥期間と解する判例・学説が多かったが(最判平成元年12月21日・民集43巻12号2209頁)、令和2年改正により第724条第2号は消滅時効として構成され直している。相続手続の遅延が長期に及ぶ事案では、時効の起算点について個別事情の検討が必要になる。
6 実務上の留意点
競売申立前の相続登記
不動産が含まれる場合、競売申立のためには対象不動産を被相続人名義から限定承認者名義への相続登記を先行させる必要がある(限定承認者は相続財産の管理処分権を有するため、相続人名義での登記が実務的に求められる)。登録免許税については、限定承認による相続は「相続」を登記原因とするため通常の相続登記と同様に処理される。
みなし譲渡所得税の申告
被相続人の相続財産のうち、取得価額よりも相続開始時の時価が上昇している資産(特に不動産・株式)については、被相続人の準確定申告においてみなし譲渡所得課税が生じる(所得税法第59条第1項第1号)。鑑定評価額で先買権を行使した場合も、その評価額が課税標準となる。この課税コストを事前に試算しないと、先買権行使後に税務負担で予期外の固有財産流出が生じる。
先買権行使の手順
①家庭裁判所への鑑定人選任申立(申立者の個人負担)→ ②鑑定人による評価→ ③鑑定評価額の確認→ ④固有財産から鑑定評価額相当額を相続財産の清算口座へ払込→ ⑤所有権取得・競売手続の停止という流れになる。鑑定評価額の提供は義務ではなく、評価額が市場価格を上回るほど高額と判断される場合には先買権行使を見送ることも可能である。
第934条の損害賠償と固有財産からの支払義務
第934条に基づく損害賠償は限定承認者の個人(固有)財産から支払われる。限定承認制度は相続財産の限度で被相続人の債務を負担する仕組みであるが、手続上の義務違反による損害賠償責任は相続財産を超えて固有財産にも及ぶ点で、実質的に無限責任化するリスクがある。公告・催告の懈怠や弁済順序の誤りは単純なミスでも重大な財産的責任を招くことから、実務では専門家(弁護士・司法書士)の関与が不可欠である。
7 関連条文
- 第927条(相続債権者及び受遺者に対する公告及び催告)
- 第928条(公告期間満了前の弁済の拒絶)
- 第929条(公告期間満了後の弁済)
- 第930条(期限前の債務等の弁済)
- 第931条(受遺者に対する弁済)
- 第935条(公告期間内に申出をしなかった相続債権者及び受遺者)
- 第260条第2項(共有物分割への参加請求)
- 第724条(不法行為による損害賠償請求権の消滅時効)
- 非訟事件手続法第195条(相続財産競売の方法)
- 民事執行法第63条(無剰余取消)
- 所得税法第59条第1項第1号(みなし譲渡所得課税)
- 家事事件手続法第200条以下(鑑定人選任申立)

