1 条文原文

第八百九十六条 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。


2 趣旨・立法背景

2-1 包括承継の原則

民法896条は、相続の最も基本的な効果を定める規定である。「相続人は被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する」という本文が、相続法全体の根幹をなす包括承継(一般承継)の原則を宣言している。

包括承継とは、被相続人の財産的地位のすべてが、個々の権利・義務ごとに移転行為を要することなく、相続開始と同時に一括して相続人へ移転するという考え方である。不動産の所有権移転であれば通常は登記、債権の移転であれば通常は債権譲渡の通知・承諾が必要とされるが、相続においてはそれらの手続を経ることなく、死亡の瞬間に法律上当然に移転する。

2-2 明治民法以来の継続性

本条の原型は明治29年(1896年)の民法(旧法)に置かれており、相続の効力に関する基本構造は120年以上にわたって維持されてきた。平成30年(2018年)の相続法大改正(令和元年7月1日全面施行)においても、896条自体の文言には変更が加えられていない。周辺規定(遺産分割・遺留分等)が大幅に見直された中にあって、包括承継の基本原則は不変のまま維持された。

2-3 「相続開始の時から」の意味

条文は「相続開始の時から」と定める。相続の開始原因は被相続人の死亡である(民法882条)。すなわち、被相続人が死亡した瞬間に、相続人への権利義務の移転は自動的に生じる。相続人が相続の事実を知っているか否か、また承認・放棄の意思表示をしていない段階であっても、この時点で法律上は包括承継が発生する。

ただし、相続人には相続を放棄する権利が認められており(民法915条・938条)、放棄がなされた場合は、はじめから相続人とならなかったものとみなされる(民法939条)。この点で、「相続開始の時から」という包括承継の効果は、放棄の遡及効によって覆されうる暫定的な状態と位置づけることができる。


3 用語解説

3-1 被相続人

財産を残して死亡した人のことを「被相続人」という。相続においては、財産を「渡す側」にあたる。

3-2 相続人

被相続人の死亡によってその財産を承継する者を「相続人」という。誰が相続人になるかは、民法887条から895条が定める。配偶者は常に相続人となり、それ以外の相続人は子・直系尊属・兄弟姉妹の順に順位が定まる。

3-3 包括承継(一般承継)

特定の財産だけを個別に取得する「特定承継」(売買・贈与等)に対置される概念であり、財産的地位の全部を一体として引き継ぐことをいう。包括承継においては、プラスの財産(積極財産)だけでなく、借金等のマイナスの財産(消極財産・債務)も承継する点が実務上重要である。

3-4 一切の権利義務

本条の「財産に属した一切の権利義務」とは、財産法上の法律関係のすべてを指す。具体的には以下のものが含まれる。

  • 不動産・動産の所有権その他の物権
  • 預金債権・貸金債権等の金銭債権
  • 賃借権(借地権・借家権)
  • 損害賠償請求権(不法行為・債務不履行によるもの)
  • 借金・ローン等の金銭債務
  • 保証債務(一定の例外を除く)
  • 著作権(財産権としてのもの)
  • 株式・持分(会社の種類による差異あり)

なお、997条ただし書にいう「系譜、祭具及び墳墓の所有権」(祭祀財産)は、896条の包括承継とは別のルール(897条)によって承継される。

3-5 一身専属権

「被相続人の一身に専属したもの」とは、特定の人格・能力・身分関係に密接不可分に結びついており、他者に移転させることが法律上または性質上許されない権利・義務をいう。法令上明示されているものと、解釈上認められるものに分かれる。


4 本文の解釈

4-1 承継の対象となる主な財産

(1) 物権

土地・建物・自動車等の所有権は当然に相続財産を構成する。相続を原因とする所有権移転の登記は、相続人が行う義務を負う(令和3年改正・不動産登記法76条の2、令和6年4月1日施行により義務化)。

(2) 債権

預貯金・貸金・売掛金等の金銭債権も相続財産を構成する。共同相続の場合、可分債権は各共同相続人が法定相続分に応じて当然に分割取得するというのが従来の判例の立場であったが(最判昭29・4・8)、預金債権については令和元年の法改正で遺産分割の対象とされた(民法909条の2参照)。

(3) 債務

借金・ローン・未払い税金等の債務も包括承継される。相続人は被相続人の債務を相続分の割合で負担する(最判昭34・6・19)。債務を承継したくない場合は、相続放棄(民法938条)または限定承認(民法922条)によって対処する必要がある。

(4) 損害賠償請求権・慰謝料請求権

被相続人が生前に取得した損害賠償請求権は、財産上のものか精神的なものかを問わず相続財産を構成する(後掲判例参照)。

(5) 賃借権

賃借権は財産的価値を有し、かつ一身専属性もないため、原則として相続される(最判平2・10・18は公営住宅の入居使用権につき承継を否定した例外)。


5 ただし書の解釈(一身専属権)

5-1 一身専属権の類型

一身専属権には、法令が明文で相続の対象外とするものと、権利の性質から解釈上承継が否定されるものがある。

(1) 法令上の明文規定があるもの

権利・義務根拠規定
代理権民法111条1項1号
使用貸借の借主の地位民法597条3項
委任契約上の権利義務民法653条1号
組合員の地位民法679条1号
著作者人格権著作権法59条

(2) 解釈上承継が否定されるもの

  • 扶養請求権・扶養義務(民法877条):受給者固有の要扶養状態を前提とするため
  • 生活保護受給権:生活保護法が一身専属性を前提とするため(最判昭42・5・24)
  • 身元保証人の地位:個人的信頼関係に基礎を置くため
  • 医師・弁護士・税理士等の資格:資格者本人の能力・適格性に専属するため
  • 取締役等の地位:委任契約の性質から(会社法330条・民法653条)

5-2 承継の可否が争われる権利

雇用契約上の地位

労働者の地位は、労務提供が本人の能力・人格に専属するため相続されない。他方、使用者(雇用主)の地位は、企業形態によるが、個人事業主の場合は一般に承継される。

身元保証債務

身元保証法は身元保証の期間を最長5年と定める(同法2条)。身元保証債務は個人的な信頼関係に基礎を置くため、承継を否定する見解が有力であり、実務上も非相続財産として扱われることが多い。

根保証

極度額の範囲で不特定の債務を保証する根保証については、民法465条の4が主たる債務者の死亡を元本確定事由と定めており、保証人が個人の場合の主債務者死亡時の取扱いに注意が必要である。


6 判例・裁判例

6-1 慰謝料請求権の相続性(最大判昭和42年11月1日・民集21巻9号2249頁)

本条の「一身専属」該当性をめぐる最も重要な判例の一つである。

事案の概要: 自転車走行中にY社の従業員が運転する貨物自動車に衝突されたBは、負傷から12日後に死亡した。BはY社に対して慰謝料請求の意思表示をしないまま死亡したため、Bの相続人XらがBの有していた慰謝料請求権を相続したとして訴訟を提起した。1審・2審は大審院判例に依拠し、被害者が生前に請求権行使の意思表示をしていなければ相続されないとして請求を棄却した。

最高裁大法廷の判断: 「慰謝料請求権が発生する場合における被害法益は当該被害者の一身に専属するものであるけれども、これを侵害したことによって生ずる慰謝料請求権そのものは、財産上の損害賠償請求権と同様、単純な金銭債権であり、相続の対象となりえないものと解すべき法的根拠はない」として、意思表示の有無にかかわらず慰謝料請求権は当然に相続されると判示し、従来の大審院判例を変更した。

実務上の意義: 被害者が即死した場合でも慰謝料請求権は発生し、相続人がこれを承継して請求できる。交通事故死亡案件等において広く適用されている。なお、裁判官15名中4名が反対意見を付しており、その理論的射程について学説上の論争が続いている。

【判決文】 「ある者が他人の故意過失によつて財産以外の損害を被つた場合には、その者は、財産上の損害を被つた場合と同様、損害の発生と同時にその賠償を請求する権利すなわち慰謝料請求権を取得し、右請求権を放棄したものと解しうる特別の事情がないかぎり、これを行使することができ、その損害の賠償を請求する意思を表明するなど格別の行為をすることを必要とするものではない。(中略)被害者が死亡したときは、その相続人は当然に慰謝料請求権を相続するものと解するのが相当である。」

6-2 公営住宅の使用権の相続(最判平成2年10月18日・民集44巻7号1021頁)

公営住宅の入居者が死亡した場合、その相続人は公営住宅の使用権を当然に承継するものではないと判示した。公営住宅法に基づく使用関係は、住宅に困窮する低額所得者に対する社会保障的な性質を有するため、入居者の一身に専属するものとして取り扱われる。一般的な民間賃貸借の借家権が相続される(民法601条)のと異なる取扱いとなる点に注意が必要である。

6-3 生活保護受給権(最判昭和42年5月24日・民集21巻5号1043頁)

生活保護受給権は、生活保護法が保護受給者本人の要保護状態を前提として付与するものであり、一身専属的な権利として相続の対象とならないと判示した。なお、保護受給者が死亡前に受給すべきであった保護費が死後に支払われる場合(既発生の給付金)の取扱いは別論となる。

6-4 占有の相続(最判昭和44年10月30日)

被相続人が土地を占有していた場合、特別の事情のない限り、その占有は相続人によって相続される。占有自体が財産的価値を有し、かつ一身専属性を有しないため、包括承継の対象となる。

6-5 無権代理人が本人を相続した場合(最判昭和40年6月18日・民集19巻4号986頁)

無権代理人が本人を相続し、本人と代理人の資格が同一人に帰した場合、本人がみずから法律行為をしたのと同様の法律上の地位が生じると判示した。896条の包括承継原則が、代理権消滅後の無権代理行為の効力判断にも波及する例として参照される。


7 実務上のポイント

7-1 相続財産調査の重要性

包括承継の原則上、被相続人の債務もすべて承継される。相続開始後3か月の熟慮期間(民法915条)内に被相続人の財産状態を調査し、承認・限定承認・放棄の選択を行う必要がある。借金の存在が判明しないまま単純承認した場合、相続人は固有財産をもってその弁済に当たらなければならない。

7-2 連帯債務・保証債務の確認

被相続人が連帯債務者または保証人であった場合、その債務も包括承継される(身元保証を除く)。金融機関等への照会によって保証債務の存在を確認することが、遺産整理の実務上求められる。

7-3 一身専属権と「行使上の一身専属権」の区別

民法上の一身専属性には2種類ある。①帰属上の一身専属権(移転そのものが否定される権利。896条ただし書が対象)と、②行使上の一身専属権(財産保全のための代位行使が否定される権利。民法423条ただし書が対象)である。896条のただし書が問題とするのは①であり、②とは局面が異なる点に留意する。

7-4 相続登記の義務化(令和6年4月1日施行)

令和3年改正による不動産登記法76条の2の施行により、相続を原因とする所有権取得を知った日から3年以内の登記申請が義務とされた(違反した場合は10万円以下の過料)。包括承継により当然に権利は移転しているが、第三者に対する対抗要件としての登記は別途必要であり、法定期間内に対処しなければならない。


8 隣接条文との関係

条文内容896条との関係
民法882条相続の開始原因(死亡)「相続開始の時」の基準時を定める
民法897条祭祀財産の承継包括承継の例外的ルール
民法915条熟慮期間(3か月)承認・放棄の前提となる調査期間
民法938条相続放棄遡及的に承継を消滅させる
民法922条限定承認相続財産の限度で債務を負担
民法423条債権者代位権行使上の一身専属権を規定(②の局面)

まとめ

民法896条は、「相続とは何か」を一文で示す規定である。被相続人の死亡により、その財産的地位(プラスとマイナスの双方)が、手続を経ることなく相続人へ当然に移転するという包括承継の原則は、相続法全体を理解するための出発点となる。

ただし書の「一身専属権」の範囲は明文だけでは尽きず、権利・義務の性質に応じた個別判断が求められる。慰謝料請求権に関する最高裁大法廷判決(昭和42年)は、被害法益の一身専属性と慰謝料請求権自体の一身専属性を峻別することで、相続性を肯定した。この論理の構造は、類似する問題場面において繰り返し参照される。

相続実務においては、積極財産のみならず消極財産(債務・保証債務)の存在にも十分注意し、熟慮期間内に必要な調査を尽くすことが求められる。

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