消防のコンプライアンス研修を、条文と判例と現場の事例で組み立てる
対象 消防学校・消防本部・消防長会
階級制、二十四時間交替勤務、そして住民の財産権と身体の自由に直接干渉する災害現場の判断。消防には、他の行政分野にない条件が重なっている。禁止事項を読み上げる研修では、この職場の問題は動かない。中川総合法務オフィスの長年の消防組織での公務員倫理・コンプライアンス研修の経験と実績を踏まえて、「消防機関のためだけに設計した研修」を、消防学校の課程と消防本部の全職員研修の双方に提供する。
| 期日 | 事項 | 内容 |
|---|---|---|
| 令和8年1月14日 | 消防消第11号 | 女性消防吏員の更なる活躍の推進及びハラスメント対策の徹底。三つのフェーズに整理した体系的な取組と、再発防止のための研修等の充実を求める |
| 令和8年10月1日 | カスハラ措置義務化 | 改正労働施策総合推進法の施行。方針の策定・公表、相談体制、事後対応、抑止措置、職員への教育を、施行日までに整える必要がある |
| 令和8年12月1日 | 改正公益通報者保護法 | 不利益取扱いへの直罰、通報者探索の禁止、従事者指定を含む体制整備。消防職員への適用関係は民間と異なり、法第9条が定める |
一 令和8年、消防に到来する三つの期日
本年、消防本部が対応を迫られる事項が三つ同時に到来する。いずれも知っておく段階ではなく、施行日までに体制と教育を整える段階にある。研修は、その体制整備の一部として位置付けられる。
| 事項 | 期日 | 求められる対応 |
|---|---|---|
| ハラスメント対策 | 消防消第11号(令和8年1月14日) | 女性消防吏員の更なる活躍の推進とハラスメント対策の徹底。対策を三つのフェーズに整理した体系的な取組と、再発防止のための研修等の充実 |
| カスタマーハラスメント対策 | 令和8年10月1日施行 | 改正労働施策総合推進法により措置義務化。方針の策定・公表、相談体制の整備、事後の迅速適切な対応、抑止のための措置、職員への教育・研修。住民・搬送先医療機関等からの著しい迷惑行為への組織対応 |
| 改正公益通報者保護法 | 令和8年12月1日施行 | 公益通報を理由とする分限免職・懲戒処分への刑事罰、通報者探索の禁止、通報を妨げる合意の無効。常時使用する労働者301人以上の団体には従事者指定を含む体制整備義務。消防職員への適用関係は法第9条が定め、民間向けの推定規定は及ばない |
消防本部は、事業者としての立場と、通報や苦情を受け付ける行政機関としての立場を併せ持つ。三つの期日は、いずれも前者、すなわち自らの職場をどう運営するかを問う事を含むものである。
二 数字が示す消防の現在地
総務省消防庁は、全国720消防本部を対象として、消防本部におけるハラスメントの実態に関する初の全国調査を実施した。令和5年度中にハラスメント行為により懲戒処分等が行われた事案は176件、処分等を受けた者は206人であった。調査結果は令和7年1月29日付け消防消第25号として全国に示されている。
| 指標 | 数値 |
|---|---|
| 令和5年度中に懲戒処分等が行われたハラスメント事案 | 176件 |
| 処分等を受けた者(監督責任による処分を含まない) | 206人 |
| 上司から部下への行為が占める割合 | 83.5% |
| 職員がハラスメントを受けているのを見聞きしたと回答した消防吏員 | 26.6% |
ハラスメントの種別(令和5年度・176件)
| 種別 | 件数 |
|---|---|
| パワー・ハラスメント | 145 |
| セクシュアル・ハラスメント | 19 |
| マタニティ・ハラスメント | 1 |
| 複数のハラスメント | 11 |
| 合計 | 176 |
処分等の種類(206人)
| 処分等の種類 | 人数 | 割合 |
|---|---|---|
| 免職 | 1 | 0.5% |
| 停職 | 17 | 8.3% |
| 減給 | 43 | 20.9% |
| 戒告 | 32 | 15.5% |
| 訓告等 | 113 | 54.9% |
声が上がらない理由は、記録に残っている
令和7年12月にとりまとめられた消防庁の検討会報告書は、無作為抽出した消防吏員800人への調査(回答606人、回答率75.8%)の結果を載せている。ハラスメントを受けた者がとった行動の最多は、何もしなかった(できなかった)であった。その理由は次のとおりである。
| 理由(複数回答・N=92) | 人数 | 割合 |
|---|---|---|
| 何をしても問題の解決にはならないと思ったから | 23 | 25.0% |
| 職場の上司や同僚との人間関係が悪くなってしまうと思ったから | 11 | 12.0% |
| 相談したことが職場内で公になってしまうと思ったから | 10 | 10.9% |
| 職場内にハラスメントについて相談しにくい雰囲気があるから | 9 | 9.8% |
| 職務上不利益が生じると思ったから | 8 | 8.7% |
| 行動を起こすほどのことではないと思ったから | 8 | 8.7% |
| 管理職員が行為者だったから | 6 | 6.5% |
上位に並ぶのは、知識の不足ではない。窓口が公平・公正に機能するという見込みが持てないという判断である。ハラスメント教育と公益通報の体制を別々の科目として扱うと、この判断は変わらない。当方の研修が両者を一体で扱う理由がここにある。
三 研修をしているのに事案が減らない理由
不祥事防止を目的とした研修は、既に多数の消防本部で実施されている。それでも事案が続く。この落差を、自ら書き残した組織がある。
千葉市消防局は、平成30年度に虚偽報告(減給)、セクシュアル・ハラスメント(戒告)、強要未遂罪及び強要罪(免職)、飲酒運転(免職)という四つの事案を相次いで発生させ、不祥事防止対策検討委員会を設置して原因を分析した。その報告書は、自らの研修の問題点を次のように記している。
管理職員からの「悪いことはするな」型の研修で終わってしまっていたため、職員は「自分は悪いことはしない」と考えて他人事と受け止め、意識の浸透には至っていなかった。
同報告書は、対策として、各所属で対象者を絞った研修の実施、消防学校の幹部課程・専科課程におけるコンプライアンス教育、そして付与された不祥事関連課題について自ら考察し職員間で検討するコンプライアンス検討会の実施を挙げた。方向は、受け身の受講から、自分で判断する訓練へ向いている。
当方の教材設計は、この指摘を出発点に置く。想定事例に正解を置かず、判断の分かれ目だけを示す。受講者は、自分ならどの時点で何をしたかを言葉にすることになる。禁止事項を列挙する構成では届かない層に、この形式は届く。
消防で教えるとき、前提としている三つの条件
消防の職務には、他の行政分野にない条件が重なっている。第一に、階級制と指揮命令が厳格であること。第二に、二十四時間交替勤務により、仮眠室を含む生活空間を職場と共有すること。第三に、災害現場の判断が住民の財産権と身体の自由に直接干渉する公権力の行使であること。三つとも職務の遂行に必要でありながら、同時に不適切な言動が生まれる土壌にもなる。最高裁判所は、後掲の糸島市消防の事件において、この点を正面から述べた。
消防職員の職務の性質上、部隊等での上下関係を基に厳しい訓練が必要となる場合があるところ、そのような上下関係が、職務遂行のための必要性とは裏腹に、職場内での優位性を背景とした不適切な言動が行われる危険をはらんでいる。 (最高裁令和7年9月2日第三小法廷判決・林道晴裁判官補足意見の趣旨)
四 服務義務の条文を読む
研修では、条文を要約して示すのではなく、原文をそのまま配布し、置かれた理由と用語の意味を添える。要約された規範は、現場で判断の材料にならないためである。以下は、実際の教材から抜き出した構成である。
出発点は憲法にある
条文原文――日本国憲法第15条第2項
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
用語解説――全体の奉仕者
戦前の官吏は天皇の官吏であり、国民に対して責任を負う建前ではなかった。日本国憲法は、公務員を主権者である国民全体に奉仕する者と位置付け直した。一部の奉仕者ではないという文言には、特定の政党、特定の企業、特定の住民、そして自分の所属する組織そのもののために職務を行ってはならないという意味が含まれる。組織をかばうために事実を隠す行為が公務員倫理に反するのは、この条項に理由がある。
服務の根本基準
条文原文――地方公務員法第30条
すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。
趣旨・立法背景
地方公務員法は昭和25年に制定された。第30条は、第31条から第38条までに置かれた個別の服務義務の総則にあたる。個別条項に書かれていない行為であっても、公共の利益に反すれば服務義務違反となり得る根拠がここにある。懲戒処分の理由として「全体の奉仕者たるにふさわしくない非行」(第29条第1項第3号)が挙げられるのは、この根本基準と対をなす。
職務上の義務と身分上の義務を分ける
服務義務は、勤務時間中にのみ及ぶものと、勤務時間外にも及ぶものに分かれる。この区別が、非番の日の行為が処分対象になる理由を説明する。消防の交替制勤務では、勤務と生活の境目が見えにくく、区別を持たないまま働く職員が生じやすい。
| 区分 | 内容 | 条文 | 及ぶ範囲 |
|---|---|---|---|
| 職務上の義務 | 服務の宣誓 | 第31条 | 職務遂行に関して |
| 職務上の義務 | 法令等及び上司の職務上の命令に従う義務 | 第32条 | 職務遂行に関して |
| 職務上の義務 | 職務に専念する義務 | 第35条 | 勤務時間中 |
| 身分上の義務 | 信用失墜行為の禁止 | 第33条 | 勤務時間外を含む |
| 身分上の義務 | 秘密を守る義務 | 第34条 | 退職後も継続 |
| 身分上の義務 | 政治的行為の制限 | 第36条 | 勤務時間外を含む |
| 身分上の義務 | 争議行為等の禁止 | 第37条 | 勤務時間外を含む |
| 身分上の義務 | 営利企業への従事等の制限 | 第38条 | 勤務時間外を含む |
上司の職務上の命令
条文原文――地方公務員法第32条
職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。
用語解説――上司の職務上の命令
条文は職務上の命令に限定している。上司であっても、職務と関係のない私的な用事を命じる権限はない。命令が重大かつ明白に違法である場合、職員はこれに従う義務を負わないと解されている。消防でこの点が問題になるのは、階級と指揮命令が厳格であるがゆえに、職務命令と私的な指示の境界が曖昧になりやすいためである。災害現場での命令は当然に従うべきものであるが、同じ上司が非番の日の飲食を強く求める行為は職務上の命令ではない。
信用失墜行為の禁止
条文原文――地方公務員法第33条
職員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない。
趣旨・立法背景
本条は、職務に関係するかどうかを問わない。職員の職全体の不名誉という文言は、一人の行為が公務員という職業全体の評価を下げることを想定している。休日の飲酒運転や暴力事件が懲戒処分の対象となるのは、この条項による。消防職員の場合、住民は火災現場や救急現場で、初対面の職員に自分の身体と家財を委ねる。その信頼は個々の職員の人格への信頼ではなく、消防という制服への信頼である。制服への信頼を損なう行為は、他の職員が現場で受け取るはずだった協力を失わせる。
参考事例(公表)
松阪地区広域消防組合は、令和4年10月28日、二名の職員に対する懲戒処分を公表した。勤務日における夜間の休憩時間に消防署の仮眠室において不適切な行為をし、職場の秩序を著しく乱したことを理由とするもので、処分は減給10分の1・3月及び減給10分の1・2月であった。一方の職員については、公務外の速度超過違反(時速60キロメートル制限の道路を時速101キロメートルで走行)による検挙も処分理由に含まれている。管理監督責任として、消防長及び次長級職員に文書訓告、課長補佐級職員3名及び係長級職員に口頭訓告が行われた。休憩時間中の行為であっても、庁舎という職場にいる以上、信用失墜行為の禁止と職場秩序の維持は及び続ける。
秘密を守る義務
条文原文――地方公務員法第34条
職員は、職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も、また、同様とする。 2 法令による証人、鑑定人等となり、職務上の秘密に属する事項を発表する場合においては、任命権者(退職者については、その退職した職又はこれに相当する職に係る任命権者)の許可を受けなければならない。
条文原文――消防法第4条第7項
消防職員は、関係のある場所に立ち入つて検査又は質問を行つた場合に知り得た関係者の秘密をみだりに他に漏らしてはならない。
用語解説――職務上知り得た秘密
職務上の秘密(職務に関する秘密そのもの)より広く、職務を通じて知った事柄一般を指す。救急搬送した傷病者の氏名、住所、既往歴、家族関係、住居の内部の様子は、すべてこれにあたる。地方公務員法第60条第2号により、第34条に違反して秘密を漏らした者は、1年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金に処せられる。服務義務のうち、直接に刑罰が科される数少ない条項である。
団結権の代償としての消防職員委員会
条文原文――地方公務員法第52条第5項
警察職員及び消防職員は、職員の勤務条件の維持改善を図ることを目的とし、かつ、地方公共団体の当局と交渉する団体を結成し、又はこれに加入してはならない。
条文原文――消防組織法第17条第1項
消防本部に、消防職員の意見を消防事務に反映しやすくし、もつて消防事務の円滑な運営に資するとともに消防職員の士気を高め、及び消防事務の能率的な運営に資するため、消防職員委員会を置く。
趣旨・立法背景
消防職員には団結権が認められていない。職務の性質上、活動の停止が住民の生命に直結するためである。その代償措置として法定されたのが消防職員委員会である。委員の半数は消防職員の推薦に基づき指名するものとされ、審議の結果は職員に周知される建付けになっている。職場環境の改善を提起する経路が法律上ここに用意されていることは、研修で最も伝わりにくく、伝われば行動が変わる部分である。ハラスメントや不祥事防止についても委員会で審議することが、平成29年の消防庁ワーキンググループ取りまとめ以来、繰り返し求められている。
営利企業への従事等の制限
条文原文――地方公務員法第38条第1項(抄)
職員は、任命権者の許可を受けなければ、商業、工業又は金融業その他営利を目的とする私企業(略)を営むことを目的とする会社その他の団体の役員その他人事委員会規則(人事委員会を置かない地方公共団体においては、地方公共団体の規則)で定める地位を兼ね、若しくは自ら営利企業を営み、又は報酬を得ていかなる事業若しくは事務にも従事してはならない。
用語解説――報酬
給与、謝金、講師料など、名目を問わず労務の対価として受け取る金銭を指す。実費弁償にとどまる旅費や、対価性のない見舞金は含まれない。消防設備の点検や防火指導は職務の対象そのものであるため、私的に有償で請け負う行為は、第38条に加えて信用失墜行為と利害関係の問題を同時に生じさせる。
五 災害現場の権限は誰のものか
公務員倫理の講義で落ちやすいのが、災害現場の活動それ自体が公権力の行使であるという点である。根拠を持たない活動は、萎縮と過剰の双方を生む。法知識は現場を縛るものではなく、現場を守るものとして扱う。
条文原文――消防法第28条第1項
火災の現場においては、消防吏員又は消防団員は、消防警戒区域を設定して、総務省令で定める者以外の者に対してその区域からの退去を命じ、又はその区域への出入を禁止し若しくは制限することができる。
条文原文――消防法第29条
消防吏員又は消防団員は、消火若しくは延焼の防止又は人命の救助のために必要があるときは、火災が発生せんとし、又は発生した消防対象物及びこれらのものの在る土地を使用し、処分し又はその使用を制限することができる。 2 消防長若しくは消防署長又は消防本部を置かない市町村においては消防団の長は、消火若しくは延焼の防止又は人命の救助のために必要があるときは、延焼の虞がある消防対象物及びこれらのものの在る土地を使用し、処分し又はその使用を制限することができる。 3 消防長若しくは消防署長又は消防本部を置かない市町村においては消防団の長は、消火若しくは延焼の防止又は人命の救助のために緊急の必要があるときは、前二項に規定する消防対象物及び土地以外の消防対象物及び土地を使用し、処分し又はその使用を制限することができる。この場合においては、そのために損害を受けた者からその損失の補償の要求があるときは、時価により、その損失を補償するものとする。
| 条項 | 対象 | 権限の主体 | 損失補償 |
|---|---|---|---|
| 第29条第1項 | 火災が発生せんとし、又は発生した消防対象物と土地 | 消防吏員又は消防団員 | 規定なし |
| 第29条第2項 | 延焼の虞がある消防対象物と土地 | 消防長・消防署長・消防団の長 | 規定なし |
| 第29条第3項 | それ以外の消防対象物と土地 | 消防長・消防署長・消防団の長 | 時価により補償 |
現場で隣家の塀を壊してよいかと迷う場面は、法的には、これは第2項か第3項か、判断するのは自分か指揮者かという問いに置き換わる。この区別を持っているかどうかが、判断の速さと、事後に住民へ説明できるかどうかを決める。研修では、事例に基づいて、条文を読み比べる時間を実際にとる。
六 糸島市消防の最高裁二判決(令和7年9月2日)
最高裁判所第三小法廷は、令和7年9月2日、福岡県南西部の糸島市消防本部の職員に対する懲戒処分をめぐる二件について、同日付けで判決を言い渡した。いずれも、処分を違法とした原審(福岡高等裁判所)の判断を破棄し、処分を適法としている。消防の指導と処分を扱う教材で、現在これを外すことはできない。
前提となる判断枠組み
懲戒処分をするかどうか、どの処分を選ぶかは、懲戒権者(消防職員の場合は消防長)の裁量に委ねられている。ただし無制限ではない。最高裁は、社会観念上著しく妥当を欠いて裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用したと認められる場合に違法となる、という枠組みを繰り返し用いている。この枠組みは最高裁昭和52年12月20日第三小法廷判決(神戸税関事件)に由来する。
用語解説――社会観念上著しく妥当を欠く
裁判所が処分の当否を自ら判断し直すのではなく、懲戒権者の判断を尊重した上で、著しく行き過ぎている場合にのみ違法とする、という審査の方法を表す言葉である。裁判所は処分を軽くする方向にも重くする方向にも自ら踏み込まない。
用語解説――懲戒と分限の違い
懲戒処分は義務違反に対する制裁である。分限処分は、勤務実績が良くない場合や心身の故障により職務に堪えない場合などに、公務能率の維持のために行われる処分であり、制裁ではない。同じ免職でも性質が異なり、退職手当の取扱いも変わる。糸島市の事案では、懲戒免職を受けた者と分限免職を受けた者の双方が存在した。
用語解説――訓告等
訓告、厳重注意、説諭、諭旨は懲戒処分ではない。実質的な制裁を伴わない矯正措置と位置付けられ、法律上の処分ではないため、原則として不服申立ての対象にならない。消防庁調査で処分等206人のうち113人がこの訓告等であった事実は、早期に是正できているとも、重い事案が軽く扱われているとも読める。
事件A 懲戒免職(令和6年(行ヒ)第241号)
小隊長等の立場にあった職員が、平成15年頃以降、少なくとも10人の部下に対し、十数年もの長期間、多数回にわたって不適切な指導と発言を繰り返した事案である。鉄棒に掛けたロープで身体を縛って懸垂をさせ、力尽きた後もそのロープを保持して数分間宙づりにしてさらに懸垂するよう指示したこと、熱中症の症状を呈するまで訓練を繰り返させたこと、体力の限界のため倒れ込んだことに対するペナルティと称してさらに過酷なトレーニングをさせたことなどが認定された。発言には、部下に恐怖感や屈辱感を与え、人格を否定し、その家族をも侮辱する内容が含まれていた。
原審は、逸脱の程度が特段大きいとまではいい難い、重大な負傷も生じていない、懲戒処分歴がない、一定の反省の態度を示している、などとして、免職は重きに失し違法であると判断した。最高裁は、これを是認しなかった。
指示や指導としての範ちゅうを大きく逸脱するものであり、部下に傷害を負わせるものであるか否かにかかわりなく、非違の程度は極めて重い。厳しい訓練が必要となる場合があるとしても、範ちゅうを大きく逸脱する指導が許容される余地はない。
さらに、消防組織においては職員間で緊密な意思疎通を図ることが職務の遂行上必要であることに鑑みれば、甚だしく職場環境を害し、消防組織の秩序や規律を著しく乱すものであるとした。第一審判決の後、当該消防本部の職員66人が、復職すると職場の秩序が乱れ、消防事務に支障が生じる上、報復によりさらなる被害が生じる不安があるとして職場復帰に反対する書面を提出していた事実も、悪影響の現れとして評価されている。
事件B 停職6月(令和6年(行ヒ)第214号)
分隊長として訓練を取り仕切る立場にあった職員が、採用後間もない部下に対し、ロープによる宙づり、肩や頭部を叩く、胸倉をつかんで揺さぶる、突き飛ばす、道具である敷板に複数回謝罪の言葉を述べさせる、といった行為をした事案である。消防長は、地方公務員法第29条第1項第1号及び第3号に基づき、条例上の上限である停職6月の処分をした。
最高裁は、身体的な苦痛のみならず強い恐怖感や屈辱感を与えるものであって、傷害を負わせるものであるか否かにかかわりなく、指示や指導としての範ちゅうを大きく逸脱した極めて不適切な言動であるとした。加えて、当該職員が部下に対する暴言を理由に文書による訓告を受けていたにもかかわらず、採用後間もない部下に対する行為を継続したことは非難を免れないと述べ、停職の種類だけでなく6月という期間の長さについても、社会観念上著しく妥当を欠くとはいえないとした。
二判決から現場が持ち帰る四点
| 読み取り | 現場での意味 |
|---|---|
| 傷害の有無は決定的でない | 両判決とも、負傷させたかどうかにかかわりなく非違の程度を評価している。怪我をさせていないから大丈夫という感覚に、法的な根拠はない |
| 個々の行為を切り分けて評価しない | 事件Aの補足意見は、原審が個々の行為を単体で評価したことについて、行為が全体としてどのような悪影響をもたらすものであるかをも十分に評価すべきであったと述べている。一回ごとには言い過ぎの範囲に見える言動が、期間の長さ、回数、被害者の数と合わさって評価される |
| 訓告歴が量定に影響する | 事件Bでは、懲戒処分歴がないことは有利に働かず、訓告を受けた後も行為を継続したことが不利に働いた。訓告は懲戒処分ではないが、量定の判断材料にはなる |
| 消防という職場の性質が量定を重くする | 両判決とも、職員間の緊密な意思疎通が職務遂行上必要であることを、悪影響の大きさを基礎付ける事情として挙げている。同じ行為でも、消防組織で行われた場合には評価が重くなり得る |
事件Aの補足意見は、消防職員に対する処分に関する先例として、最高裁令和4年6月14日判決及び最高裁令和4年9月13日判決にも言及している。消防組織における同種事案は、一連の判断として積み上がりつつある。
七 指導とパワハラの境界
条文原文――労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律第30条の2第1項
事業主は、職場において行われる優越的な関係を背景とした言動であつて、業務上必要かつ相当な範囲を超えたものによりその雇用する労働者の就業環境が害されることのないよう、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じなければならない。
趣旨・立法背景
本条は令和元年の改正により新設され、令和2年6月から施行された。それまで職場のパワー・ハラスメントは法律上の定義を持たず、民事の裁判例の積み重ねによって不法行為として処理されてきた。措置義務という形をとったことにより、個々の行為者の責任とは別に、組織として体制を整えなかったこと自体が問われるようになった。地方公務員についても事業主としての措置義務が及び、総務省は令和2年に地方公務員におけるパワー・ハラスメント防止対策の推進について通知を発している。紛争解決の手続は民間と異なり、人事委員会又は公平委員会への勤務条件に関する措置の要求や苦情処理の仕組みによる。
| 要素 | 内容 | 消防での現れ方 |
|---|---|---|
| 優越的な関係を背景とした言動 | 抵抗又は拒絶することが困難な関係 | 階級、指揮命令、期別、専門知識・技能の差 |
| 業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの | 目的、態様、手段、程度 | 訓練の目的を超えた懲罰的トレーニング |
| 就業環境が害される | 平均的な労働者の感じ方を基準 | 出勤困難、退職、士気の低下 |
三つすべてを満たすことが要件である。裏返せば、業務上必要かつ相当な範囲にとどまる指導は、部下が不快に感じたとしても該当しない。受け手がそう感じたら該当するという説明でこの点を曖昧にすると、指導そのものが萎縮する。消防の研修で最も慎重に扱うべき箇所である。
境界を判断する四つの問い
糸島市消防の二判決から、そのまま現場で使える基準を取り出すと、次の四点になる。
第一に、その行為の目的は何か。技能の向上か、それとも懲罰か。事件Aで問題とされた行為には、体力の限界のため倒れ込んだことに対するペナルティと称するトレーニングが含まれていた。ペナルティという言葉が出た時点で、目的は訓練から離れている。判決は、行為が部下に対する悪感情等の赴くままに行われた部分が大きかったと認定している。
第二に、手段は目的に見合っているか。同じ体力向上という目的であっても、ロープで宙づりにする必要はない。目的が正当でも、手段が過大であれば範ちゅうを超える。
第三に、人格に触れていないか。判決は、発言のうち恐怖感や屈辱感を与えるもの、人格を否定するもの、家族を侮辱するものを区別して挙げている。行為の是正を求める言葉と、人格を評価する言葉は置き換えが可能である。この手順が抜けているは前者、お前は消防士に向いていないは後者である。
第四に、他の職員の面前で行っていないか。公然性は、受け手の屈辱感を高めると同時に、周囲の職員の就業環境も害する。刑法第231条の侮辱罪が公然と人を侮辱した者を処罰の対象としているのも、同じ理由による。
セクシュアル・ハラスメントとマタニティ・ハラスメント
セクシュアル・ハラスメントは、男女雇用機会均等法第11条に基づく措置義務の対象であり、対価型と環境型に分かれる。消防では、二十四時間勤務と少数の女性職員という条件が重なるため、環境型が生じやすい。千葉市の事例では、人事異動に伴う送別会の終了後に女性職員に対して行われた行為が戒告処分となっており、動機として記録されているのは、場の雰囲気を盛り上げようと安易な考えから、というものであった。行為者の主観的な悪意の有無が成否を左右しないことを示す記録である。なお令和8年10月1日からは、求職者等に対するセクシュアル・ハラスメントの防止措置も義務化され、採用説明会や職場体験の受入れにおける言動も対象に入る。
マタニティ・ハラスメントは、育児・介護休業法及び男女雇用機会均等法に基づき、制度等の利用への嫌がらせ型と状態への嫌がらせ型がある。消防では、妊娠中の内勤配置や、男性職員の育児休業取得に関する言動が問題になりやすい。今の時期に休まれると隊の編成が回らないという発言は、事実として正しくても、制度利用を妨げる文脈で発せられれば該当し得る。
見聞きした側にできる四つのこと
消防吏員の26.6%が、職員がハラスメントを受けているのを見聞きしたと回答している。当事者より目撃者の方が多い。研修では、この層に具体的な行動を渡す。負担の軽い順に並べる。
一つ目は、その場で話題を変える、業務上の用件を持ち込むなど、状況を中断させること。行為者を正面から諫めなくても、場を切ることには効果がある。二つ目は、受けた側に後で声をかけること。大丈夫かではなく、さっきのあれは行き過ぎだと思ったと、自分の評価を伝える形がよい。受けた側が自分が悪いのかもしれないと考え込むことを防ぐ意味がある。三つ目は、日時、場所、居合わせた者、言われた言葉を、その日のうちに記録すること。後日の調査で、第三者の同時期の記録は重い意味を持つ。四つ目は、窓口へ伝えること。受けた本人が動けない場合でも、見聞きした者からの通報を受け付ける仕組みを持つ本部が多い。
相談を受けた管理監督者がしてはならない三つのこと
第一は探索である。誰が言ったのかを詮索する行為は、それ自体が新たな加害となる。改正公益通報者保護法では、通報者の探索が明文で規制される。第二は範囲外の共有である。相談内容を、対応に必要のない者に伝えてはならない。あの件、聞いたかという一言が、相談者の職場での立場を決定的に悪化させる。第三は放置である。消防庁調査では、消防本部が被害を知っていたと回答した22人のうち3人が、特に何もしなかったと答えている。知った以上、何もしないという選択肢はない。
八 カスタマーハラスメント 令和8年10月1日施行
令和7年6月11日、労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律(令和7年法律第63号)が公布された。カスタマーハラスメントの防止措置が事業主の義務となり、施行日は令和8年10月1日である。令和8年2月26日には、カスタマーハラスメント防止指針(令和8年厚生労働省告示第51号)が公布されている。
改正後の労働施策総合推進法第33条第1項は、事業主に対し、職場において顧客等から受ける就業環境を害する言動に関し、労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講ずることを義務付ける。
定義の三要素
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 顧客等の言動であること | 顧客、取引の相手方のほか、施設(駅、空港、病院、学校、福祉施設、公共施設等)の利用者その他の事業に関係を有する者が含まれる。電話やSNS等のインターネット上で行われるものも対象となる |
| 社会通念上許容される範囲を超えたものであること | 労働者が従事する業務の性質その他の事情に照らして判断される |
| 労働者の就業環境が害されるものであること | 継続的・執拗な言動、長時間の拘束、著しい暴言、暴力、正当な理由のない過度な要求などが典型となる |
用語解説――業務の性質その他の事情に照らして
この文言は、業種によって許容される範囲が異なることを認めている。救急現場で、恐怖と混乱の中にある家族が語気を強めることと、庁舎の窓口で同じ言葉を繰り返すことは、同じ評価にならない。消防の場合、緊急時の切迫した言動と、それを超えた執拗な攻撃を切り分ける視点が求められる。当方の教材は、この切り分けを現場の場面ごとに扱う。
消防で想定される場面
災害現場での住民からの罵倒、救急搬送先医療機関の職員からの侮辱的言動、査察・立入検査に伴う関係者からの威圧、消防同意や許認可をめぐる執拗な要求、SNSでの隊員個人を特定した中傷。いずれも顧客等の言動に含まれ得る。
現場の職員にとって意味を持つのは、次の一点である。住民からの著しい言動に一人で耐えることは、もはや職員個人の忍耐の問題ではなく、組織が体制で対応すべき事柄になった。上司が、そういうものだ、気にするなと述べて終える対応は、10月1日以降は措置義務との関係で成立しない。
九 改正公益通報者保護法 令和8年12月1日施行
令和7年6月11日、公益通報者保護法の一部を改正する法律(令和7年法律第62号)が公布された。施行日は令和8年12月1日である。令和2年改正で体制整備が義務化されたものの、不利益取扱いの禁止に直接の罰則がなかった。今回の改正は、その実効性を正面から問う内容になっている。
主な改正点(民間事業者に対する規律)
| 改正点 | 内容 |
|---|---|
| 刑事罰の新設 | 公益通報を理由とする解雇又は懲戒をした者に、6月以下の拘禁刑又は30万円以下の罰金(法21条1項)。法人には両罰規定として3000万円以下の罰金(法23条1項) |
| 推定規定 | 通報から1年以内の解雇又は懲戒は、公益通報を理由とするものと推定される(法3条3項)。通報とは無関係であることを事業者の側が立証しなければならない |
| 探索・妨害の規制 | 通報者の探索が禁止され(法11条の3)、通報しない旨の合意を求める行為も禁止されて当該合意は無効となる(法11条の2) |
| 保護範囲の拡大 | いわゆるフリーランス(特定受託業務従事者)及び業務委託関係の終了後1年以内の者が加わる(法2条1項) |
| 従事者指定の実効化 | 指定義務違反に対する命令が新設され、命令違反には刑事罰が科される(法15条の2、法21条2項) |
消防職員に及ぶ規定と、及ばない規定
上の表は民間事業者に対する規律である。消防職員は一般職の地方公務員であり、解雇・懲戒に関する民間向けの条項(法3条から5条まで)はそのまま適用されない。適用関係を定めるのは法9条である。同条は、一般職の地方公務員を含む一般職の国家公務員等に対する免職その他不利益な取扱いの禁止について、法3条から5条までの規定にかかわらず国家公務員法・地方公務員法等の定めるところによるとしたうえで、法3条第2項及び第3項の規定は適用しないものとしている。
3条3項が推定規定である。したがって、通報から1年以内の処分を通報が理由と推定する効果は、消防職員には及ばない。処分が通報を理由とするものであることの立証は、従前どおり通報した職員の側が負う。ここを取り違えたまま職員に通報を勧める研修は、制度が守ってくれる範囲を実際より広く伝えることになる。
| 事項 | 根拠 | 消防本部への適用 |
|---|---|---|
| 通報を理由とする免職その他不利益取扱いの禁止 | 法9条 | 及ぶ。ただし民間向けの法3条ではなく法9条による |
| 分限免職又は懲戒処分をした者への直罰(6月以下の拘禁刑又は30万円以下の罰金) | 法21条1項 | 及ぶ。処分を行った個人が刑事責任を負う |
| 法人への両罰規定(3000万円以下の罰金) | 法23条1項・2項 | 及ばない。国及び地方公共団体は対象外 |
| 通報から1年以内の解雇・懲戒の推定 | 法3条3項 | 及ばない。法9条により法3条2項・3項は適用しない |
| 通報者探索の禁止 | 法11条の3 | 及ぶ |
| 通報を妨げる行為の禁止と合意の無効 | 法11条の2 | 及ぶ |
| 従事者指定義務・体制整備義務・周知義務 | 法11条 | 及ぶ |
| 勧告、命令、報告徴収及び立入検査 | 法15条〜16条 | 及ばない。国及び地方公共団体には適用しない |
用語解説――公益通報対応業務従事者
通報の受付、調査、是正措置に主体的に関与する者として指定される職員をいう。指定を受けた者には守秘義務が課され、違反には刑事罰がある。常時使用する労働者が301人以上の事業者には指定義務があり、300人以下では努力義務とされる。消防本部・一部事務組合においては、職員数によりこの区分が変わるため、施行日までに自らの区分を確認する作業が要る。
消防庁調査で、ハラスメントを受けても何もしなかった理由の上位に並んでいたのは、何をしても問題の解決にはならないと思ったから、相談したことが職場内で公になってしまうと思ったから、の二つであった。改正法のうち、後者にはそのまま対応する規定が置かれた。通報者探索の禁止である。誰が言ったか調べられるという懸念には、法11条の3が正面から答えている。
前者については、事情が異なる。推定規定が及ばず、外部からの是正命令も予定されていない以上、通報して意味があるかどうかは、各本部が自ら整えた体制の質にかかっている。法律が肩代わりしてくれる部分は限られている。この構図を職員と管理監督者の双方に示すことが、研修でこの法律を扱う実際の目的である。
告発義務との関係
条文原文――刑事訴訟法第239条第2項
官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。
趣旨・立法背景
平成29年の消防庁ワーキンググループにおいて、全国消防職員協議会等から、この規定についての研修を積極的に行うべきであるとの意見が出された。知識が不足しているという指摘であった。消防職員は公吏に当たる。思料するときとは確信を要求するものではなく、犯罪の疑いを抱いた場合を指す。放火の疑いのある火災現場、虐待が疑われる救急搬送、そして職場内の暴行・傷害事案が、いずれもこの規定の射程に入り得る。内々に処理するという選択が許されるかを、条文に即して検討する。
十 実務の想定事例
教材には、現場で起こり得る事例を配置する。正解は置かない。示すのは判断の分かれ目だけである。班別討議では、自分ならどの時点で何をしたかを言葉にしてもらう。以下は実際に使用している事例の抜粋である。
事例1 記録の修正を命じられた
救急出動から帰署した後、当直責任者が、今日の記録は少し直しておけ、搬送先とのやり取りで角が立つ、と言った。搬送時刻を実際より5分早く記載するよう求める内容であった。当該職員は、上司の命令であるとして従った。
判断の分かれ目――この指示は職務上の命令の外にある。虚偽の公文書を作成させる内容だからである。従った職員にも、地方公務員法第32条及び第33条の問題が生じる。千葉市の事例は、運転記録証明書を改ざんして虚偽の報告を行った職員が減給10分の1・3月の処分を受けたもので、本人の動機として、わからないと思っていた、と記録されている。
事例2 非番の日の口論
非番の日、職員が自家用車で帰宅途中、コンビニエンスストアの駐車場で他の客と口論になり、相手の胸ぐらをつかんだ。警察が臨場したが、双方が被害届を出さず、事件化しなかった。数日後、当該客が消防本部に、消防職員だと名乗って威圧された、と苦情を申し立てた。
判断の分かれ目――刑事事件にならなかったことと、懲戒処分の対象にならないことは別である。信用失墜行為の禁止は刑罰法規への違反を要件としていない。消防職員だと名乗った事実の有無が、職の信用への影響の評価を大きく変える。
事例3 家庭内での会話
救急隊員が、搬送した住民について、勤務終了後に配偶者へ、今日は近所の◯◯さんを運んだ、あの家は中がひどいことになっていた、と話した。配偶者は地域の知人にこれを伝え、噂として広がった。
判断の分かれ目――家庭内での会話であることは免責事由にならない。搬送の事実そのものが秘密にあたる。悪意がなく業務の愚痴のつもりであったという点も、地方公務員法第34条の適用を左右しない。近年はこれに加え、写真をSNSに投稿する形態の事案が生じている。現場写真は、背景の建物や表札から個人が特定され得る。
事例4 実家の手伝いと有償の点検
職員が、非番の日に実家の農業を手伝っている。収穫物は家族名義で出荷されており、本人は報酬を受け取っていない。同じ職員が、隣家の依頼を受けて、防火設備の点検を有償で請け負った。
判断の分かれ目――前段は、自ら営利企業を営むといえるかが問題となり、規模と関与の程度によって結論が変わる。後段は、報酬を得て事業に従事するものであり、加えて職務との関連性が信用失墜行為と利害関係の問題を生じさせる。
事例5 訓練の反復指導
新規採用職員が、ホース延長訓練で三回続けて同じ手順を誤った。分隊長は他の隊員の面前で、三回だ、次に間違えたら訓練を止める、と述べ、当該職員だけを残して手順を反復させた。反復は30分に及び、当該職員は途中で嘔吐した。分隊長は、限界を知ることも訓練だ、と言い、続行させた。
判断の分かれ目――手順の反復自体には業務上の必要性がある。他の隊員の面前での指摘も、事実の指摘にとどまる限り範囲内といえる。分岐点は嘔吐した後である。身体の異常が現れた時点で、訓練としての必要性と相当性は失われる。事件Aで熱中症の症状を呈するまで訓練を繰り返させた行為が挙げられていることを想起すべきである。
事例6 仮眠室での執拗な質問
当直中、職員が仮眠室で私物のスマートフォンを見ていたところ、先輩職員が画面をのぞき込み、交際相手について繰り返し尋ねた。当該職員が答えを避けると、そんなに隠すのか、と言い、以後、他の職員の前で、あいつは秘密主義だ、と繰り返した。
判断の分かれ目――性的な事柄への執拗な質問はセクシュアル・ハラスメントの問題となり、拒絶後の言動の反復はパワー・ハラスメントの問題となる。両者は択一ではない。消防庁調査では、二種類以上のハラスメントが行われた事案が176件中11件を占めている。
事例7 配慮のつもりの配置換え
本部の係長が、部下の女性職員に対し、現場は体力的にきついだろうから事務に回った方がいい、と述べ、本人の希望を聞かないまま人事担当課に配置換えを申し出た。当該職員は現場配属を希望していた。
判断の分かれ目――配慮のつもりの言動が、職域を性別によって限定する結果を生んでいる。消防庁の検討会報告書が女性消防吏員の職域拡大を課題として挙げているのは、この種の善意による限定が現に存在するためである。人事上の措置に至った点で、単なる発言にとどまらない。
事例8 搬送中の罵倒と、上司の一言
救急隊員が、搬送中の傷病者の家族から、対応が遅い、税金泥棒、と繰り返し罵倒された。帰署後、当該隊員は上司に報告したが、そういうものだ、気にするな、と言われた。
判断の分かれ目――カスタマーハラスメントの問題であると同時に、上司の対応が組織の措置義務に関わる。令和8年10月1日以降、相談を受けた側が何もしないという対応は、法令上の位置付けを持たない。
事例9 警戒区域からの退去
火災の現場で、警戒区域の外への退去を求めたところ、住民が、自分の家だ、入って何が悪い、と言って制止を振り切ろうとし、隊員の胸を突いた。隊員はこれを制止した。
判断の分かれ目――退去を命じる権限は消防法第28条第1項に根拠がある。区別すべきは、権限の行使としての制止と、感情的な応酬である。前者は職務であり、後者は信用失墜行為の問題を生じる。胸を突く行為は公務執行妨害罪に当たり得るが、その判断は警察に委ねるべき事柄であって、現場でこれを告げて威圧する必要はない。事後に記録を残し、組織として対応する。
事例10 内々に処理する
訓練中、分隊長が部下の胸倉をつかんで突き飛ばし、部下が転倒して手をついた。骨折には至らなかった。居合わせた職員が上司に報告したところ、本人同士で話がついているから内々に処理する、と言われた。
判断の分かれ目――行為は暴行罪、結果次第では傷害罪の構成要件に当たり得る。刑事訴訟法第239条第2項の告発義務との関係で、内々に処理するという選択が許されるかが問われる。報告した職員がこの後に不利益な取扱いを受けた場合、改正公益通報者保護法の適用が問題となる。事件Bにおいて、訓告を受けた後も行為が継続した事実が量定を重くする方向に働いたことも、あわせて想起されたい。
十一 研修プログラム
消防学校向け 課程への組込み
消防学校の教育訓練の基準(平成15年消防庁告示第3号)の下で、各消防学校は到達目標を尊重しつつ、標準的な教科目及び時間数を参考指針として具体のカリキュラムを自主的に編成できる。特別教育は、教科目及び時間数を目的に応じて適宜編成できる建付けである。消防庁の実態調査で処分者が集中していた消防司令・消防司令補は、幹部教育の対象と一致する。各本部が個別に行う研修より、昇任の節目に全員が通過する消防学校で扱う方が、教育効果と公平性の両面で優れる。
| 課程 | 時限数 | 内容 |
|---|---|---|
| 初任教育(服務関係科目) | 1〜2時限 | ハラスメントの定義と消防庁実態調査の読み解き。相談・通報の三つの経路(本部窓口・構成市町村・消防庁相談窓口)。令和8年12月1日施行の改正法による通報者保護の新ルール。一人で抱えないための行動 |
| 幹部教育(初級・中級幹部科) | 2〜3時限 | 指導とパワハラの境界(糸島市消防の最高裁二判決・処分例)。処分の6割が司令・司令補に集中する構造の分析。相談・通報を受けた際の初動と、してはならないこと(探索・詮索・放置)。令和8年10月1日施行のカスハラ措置義務と、住民対応での組織的判断 |
| 特別教育(所属長・監督職/総務・通報窓口担当) | 半日〜1日 | 三点一体の実務。消防消第11号の三つのフェーズに沿った体制点検、カスハラ措置義務への対応要領、改正公益通報者保護法の従事者指定・規程整備。災害現場の法務(権限主体と根拠条文の区別)を含む判断演習 |
消防本部向け 全職員研修(120分・7講)
消防司令長から採用一年目の消防士まで、同じ内容を同じ言葉で共有できるよう、法律の予備知識を前提としない構成をとる。交替制勤務で全員を一度に集められない場合の分割開催に対応する。
| 講 | 主題 | 内容 | 時間 |
|---|---|---|---|
| 第1講 | 問題の所在 | 消防庁実態調査(176件・206人)、見聞き26.6%、千葉市消防局の自己分析 | 10分 |
| 第2講 | 法的な土台 | 憲法第15条第2項、地方公務員法第30条から第38条までの原文と趣旨、職務上の義務と身分上の義務の区別、消防法第28条・第29条にみる権限主体の違い | 30分 |
| 第3講 | 懲戒と裁判所 | 地方公務員法第29条、神戸税関事件の判断枠組み、糸島市消防の最高裁二判決(令和7年9月2日) | 20分 |
| 第4講 | 指導との境界 | パワハラ三要素、境界を判断する四つの問い、第三者として取り得る行動、管理監督者がしてはならない三つ | 35分 |
| 第5講 | カスハラ | 令和8年10月1日施行の措置義務、定義の三要素、災害・救急・査察の場面への当てはめ | 10分 |
| 第6講 | 公益通報 | 令和8年12月1日施行、分限免職・懲戒処分への直罰、通報者探索の禁止、民間の推定規定が消防職員に及ばない理由(法9条)、刑事訴訟法第239条第2項 | 10分 |
| 第7講 | 演習 | 班別討議(設問3問)、指導・職務外・第三者の三区分によるセルフチェック | 5分 |
時間数、対象階級、事例の差し替えは、貴組織の教育体系と過去の事案に合わせて調整する。90分・60分への短縮、二回に分けた連続開催、オンライン併用にも対応する。
十二 実績と講師
| 指標 | 内容 |
|---|---|
| 850回超 | 企業・公的団体・官公庁での研修講演回数 |
| 40都道府県超 | 北海道から沖縄まで、全国で実施 |
| 2年連続 | 職員約300人規模の消防局で公務員倫理・コンプライアンス研修を担当 |
| 24年 | 平成14年の事務所創設から現在まで |
消防組織での実施例
鳥取県西部広域行政管理組合消防局(職員約300人規模)において、令和7年度・令和8年度と2年連続で公務員倫理・コンプライアンス研修の講師を務めた。研修後、消防長から、当該組合の実情に合わせたテキストの作り込みまで含めて評価をいただいている。設計は次のとおりである。
一年目は制度と用語を知る段階、二年目は知識を実際の判断に使う段階と位置付け、条文の羅列ではなく現場で判断が分かれる場面を中心にテキストを構成した。ハラスメントは、消防消第11号が求める再発防止のための研修等の充実そのものとして位置付け、第三者として取り得る具体的行動を挙げられることを到達目標に据えた。カスハラ・公益通報の二法については、施行日までに組織が体制を整える必要があることを明示し、制度理解と組織対応を接続した。災害現場の判断については、根拠条文と権限主体を区別できることを到達目標とし、根拠を持たない活動は萎縮と過剰の双方を生むという観点から、法知識は現場を縛るものではなく現場を守るものであることを一貫して説いた。
講師 中川恒信(なかがわ こうしん)
中川総合法務オフィス代表、行政書士。立命館大学法学部卒業後、同大学法職課程に在籍。民間企業勤務(元取締役)を経て、平成14年に中川総合法務オフィスを創設。京都府行政書士会「著作権相談センター」初代委員長、著作権法学会正会員。ファイナンシャル・プランナー。令和2年に合同会社中川総合オフィスを設立し代表に就任。
コンプライアンス、リスクマネジメント、内部統制、災害危機管理、地方自治法・地方公務員法等の自治体法務、公務員倫理、ハラスメント、クレーム対応、個人情報の保護を主題として、全国の自治体・企業・一部事務組合で研修講師を務める。著書『公務員の教科書「道徳編」』(ぎょうせい)は、不祥事が発生した団体のコンプライアンス委員会で指定図書・推薦図書として用いられている。事業者の外部公益通報窓口の運営を受託しており、通報受付の実務を知る立場から講義する。大学院において消防法・消防組織法を継続的に研究しており、災害現場の法務についても条文に即した講義が可能である。
十三 実施要領とよくあるご質問
問 交替制勤務のため、全職員を一度に集められない。
答 分割開催に対応する。同一内容を複数回実施する形、当務ごとに実施する形、一部をオンライン併用とする形のいずれも実績がある。分割した場合でも、班別討議の設問を共通にすることで、事後に本部全体で結果を集約できる。
問 謝金や旅費の規程が決まっている。
答 貴組織の規程に従う。消防学校の場合、他の外部講師と同じ扱いで差し支えない。近隣府県の消防学校・消防本部との日程調整により、旅費を分担する形にも対応する。
問 次年度のカリキュラム編成を検討する段階である。
答 検討材料として、講義概要書と模擬レジュメを無償で送付する。実際に使用した教材の目次見本も提供できる。内部の決裁で説明しやすい形にまとめてある。
問 過去に自本部で発生した事案を扱ってほしい。
答 公表済みの処分事例、内部調査報告書、職員アンケートの結果などをご提供いただければ、想定事例を差し替えて構成する。事案の当事者が特定されない形に加工したうえで教材に組み込む。守秘の取扱いは事前に取り決める。
問 すでに毎年ハラスメント研修を実施している。
答 消防庁の調査では約8割の本部が研修を実施しており、それでも事案は続いている。当方の研修は、定義の説明を出発点とせず、判断が分かれる場面と、令和8年に施行される二法の実務を扱う。前年度までの教材をご提供いただければ、重複を避けた構成を組む。
問 相談窓口の体制づくりから相談したい。
答 研修と体制構築を分けずに受任できる。改正公益通報者保護法の従事者指定、内部規程の整備、窓口担当者の研修、外部窓口の受託まで対応する。継続的に関与する場合は顧問契約の形をとることもできる。
問 消防団員や一般職員も対象に含めたい。
答 対象に含めて構成する。消防団員については消防組織法上の身分と権限の違いを扱う必要があるため、消防法第29条の権限主体の区別を厚めに置く形に調整する。
お問い合わせ
次年度の課程編成、今年度の体制整備。いずれの段階からでもご相談に応じる。
講義概要書と模擬レジュメを無償で送付する。日程、時間数、対象階級、扱う事案の希望をお知らせいただければ、貴組織の教育体系に合わせた構成案を作成のうえご返信する。
| 窓口 | 内容 |
|---|---|
| お問い合わせフォーム | https://compliance21.com/contact/ 24時間受付 |
| 電話 | 075-955-0307(平日9時〜18時) |
| 所在地 | 中川総合法務オフィス 京都府長岡京市 |
参考資料・出典
法令
- 日本国憲法第15条第2項
- 地方公務員法第29条、第30条から第38条まで、第52条第5項、第60条
- 消防組織法第17条
- 消防法第4条、第28条、第29条
- 刑法第231条
- 刑事訴訟法第239条第2項
- 労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律第30条の2、第38条の2、同法(令和7年法律第63号による改正後・令和8年10月1日施行)第31条、第33条、第42条、第48条
- 雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律第11条
- 公益通報者保護法(令和7年法律第62号による改正)第3条、第9条、第11条、第11条の2、第11条の3、第15条から第16条まで、第21条、第23条
- 消防学校の教育訓練の基準(平成15年消防庁告示第3号)
裁判例
- 最高裁昭和52年12月20日第三小法廷判決(民集31巻7号1101頁。神戸税関事件)
- 最高裁平成24年1月16日第一小法廷判決(裁判集民事239号253頁)
- 最高裁令和4年6月14日第三小法廷判決(裁判集民事268号23頁)
- 最高裁令和4年9月13日第三小法廷判決(裁判集民事269号21頁)
- 最高裁令和7年9月2日第三小法廷判決(令和6年(行ヒ)第241号)
- 最高裁令和7年9月2日第三小法廷判決(令和6年(行ヒ)第214号)
行政資料
- 総務省消防庁「消防本部におけるハラスメント等への対応策に関するワーキンググループ取りまとめ」(平成29年7月)
- 消防消第171号(平成29年7月4日、消防庁次長通知)
- 消防消第25号「消防本部におけるハラスメントの実態に関する調査の結果及び留意事項について」(令和7年1月29日、消防庁消防・救急課長通知)
- 総務省消防庁「消防本部における女性活躍推進に関する検討会報告書」(令和7年12月)
- 消防消第11号「消防本部における女性消防吏員の更なる活躍の推進及びハラスメント対策の徹底について」(令和8年1月14日)
- 消防庁消防・救急課「消防職員委員会 運営事例集」(令和7年7月28日)
- 千葉市消防局不祥事防止対策検討委員会「不祥事防止対策について(報告)」(平成31年3月)
- 松阪地区広域消防組合「懲戒処分の公表について」(令和4年10月28日)
- 厚生労働省「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(令和8年厚生労働省告示第51号)
中川総合法務オフィスへのお問い合わせは、https://compliance21.com/contact/ へ。

