1 条文原文
(相続の放棄の効力) 第九百三十九条 相続の放棄をした者は、その相続に関しては、初めから相続人とならなかったものとみなす。
2 趣旨・立法背景
2-1 規定の機能
民法938条が定める家庭裁判所への申述によって相続放棄が受理されると、本条がその法的効果を確定する。条文上の文言は「初めから相続人とならなかったものとみなす」であり、放棄者は被相続人の死亡時点に遡って相続人としての地位を有していなかった者として扱われる。
この遡及的擬制により、放棄者は被相続人の積極財産(不動産、預貯金等)も消極財産(債務)も一切承継しない。遺産分割協議への参加資格も生じない。条文が「とならなかった」という過去形を用いている点が示すとおり、放棄の効果は申述受理の時点から将来に向かって発生するのではなく、相続開始時に遡って発生する。
2-2 限定承認・単純承認との対比
民法920条(単純承認の効力)は相続人が被相続人の権利義務を無限に承継すると定め、民法922条(限定承認の効力)は相続によって得た財産の限度でのみ債務を弁済する責任を負うと定める。これらに対し相続放棄は、承継そのものを全面的に消滅させる点で性質が異なる。限定承認が相続人としての地位を保持したまま責任の範囲を限定するのに対し、相続放棄は相続人としての地位自体を遡及的に否定する。
2-3 昭和37年改正による条文整理
本条は昭和37年法律第40号による改正前は二項構成であった。改正前939条1項は「放棄は、相続開始の時にさかのぼってその効力を生ずる。」と定め、2項は「数人の相続人がある場合において、その一人が放棄をしたときは、その相続分は、他の相続人の相続分に応じてこれに帰属する。」と定めていた。
改正前2項については、子が放棄した場合にその相続分が配偶者にも帰属するのかという解釈上の対立が生じていた。法務省の立法資料によれば、この解釈上の対立を解消するため2項が削除され、939条全体が現行の一文に改められた経緯がある。現行法では、放棄者の相続分の帰属先は民法900条・901条の規定に基づき他の相続人の地位構成から直接導かれる構造となっており、独立した帰属規定を置く必要がなくなった。
最高裁昭和42年1月20日第二小法廷判決は、改正前939条1項の「さかのぼってその効力を生ずる」という規定が、放棄者本人との関係においては改正後の現行規定と同趣旨であると判示している。条文の文言は変わったが、遡及的に相続人でなかったものとする効果そのものは改正の前後で実質的な変更を受けていない。
3 用語解説
遡及効 ある法律行為の効力が、行為の時点ではなく、それより前の一定時点から発生したものとして扱われる効果。本条では相続開始時(被相続人死亡時)に遡る。
みなす 反証を許さない法的擬制を意味する語。「推定する」とは異なり、実際の事実関係にかかわらず一定の法律関係が存在するものとして扱われる。本条では放棄者が現実には相続人として行動していた事実があったとしても、それを覆して「相続人でなかった」という効果を確定的に生じさせる。
代襲相続 相続人となるべき者が相続開始前に死亡し、または相続権を失った場合に、その者の子等の直系卑属が代わって相続人となる制度(民法887条2項・3項)。
絶対効 ある法律効果が特定の当事者間でのみ生じるのではなく、第三者を含むすべての者との関係において等しく生じる効力。本条の遡及効はこの絶対効を有する。
法定相続分 被相続人が相続分を指定していない場合に、民法900条・901条の規定に従って各相続人に割り当てられる相続財産の取得割合。
4 本条が生じさせる主要な効果
4-1 相続分の帰属
数人の相続人のうち一人が放棄した場合、その者は最初から存在しなかったものとして相続人の範囲が再構成される。配偶者と子2名が相続人である場合に子の1名が放棄すると、配偶者と子1名のみで構成される相続として法定相続分が算定される。改正前939条2項のような独立の帰属規定を介さず、900条・901条の算定構造に放棄者を含めないことで結果が導かれる。
4-2 次順位相続人への移行
第一順位の相続人(子)の全員が放棄すると、第二順位(直系尊属)、さらに全員が放棄すれば第三順位(兄弟姉妹)に相続権が移行する(民法889条)。放棄が「初めから相続人とならなかった」効果を持つため、この移行は代襲相続ではなく、順位構造そのものの後退によって生じる。
4-3 代襲相続の不発生
民法887条2項は、被相続人の子が「相続の開始前に死亡したとき」または「第891条の規定に該当し、若しくは廃除によって、その相続権を失ったとき」に代襲相続が生じると定める。相続放棄はこの代襲原因に含まれていない。放棄者は初めから相続人でなかったものとみなされるため、その子が代わりに相続人となる余地が生じない。
実務上、孫が祖父母の相続において代わりに財産を取得できると誤解されるケースが多いが、相続放棄をした親の子(被相続人の孫)が代襲によって相続人となることはない。
5 関連する条文構造
| 条文 | 規定内容 |
|---|---|
| 民法915条 | 相続の承認・放棄をすべき期間(原則3か月) |
| 民法920条 | 単純承認の効力(無限の権利義務承継) |
| 民法922条 | 限定承認の効力(限度内責任) |
| 民法938条 | 相続放棄の方式(家庭裁判所への申述) |
| 民法939条 | 相続放棄の効力(本条、遡及的不存在の擬制) |
| 民法887条2項 | 代襲相続(放棄は代襲原因とならない) |
| 民法889条 | 相続人の順位(放棄により次順位へ移行) |
| 民法899条の2 | 共同相続における権利承継の対抗要件 |
6 判例・裁判例
6-1 最判昭和42年1月20日(相続放棄の絶対効、登記の要否)
被相続人Aが昭和31年8月28日に死亡し、相続人7名のうち5名が家庭裁判所に相続放棄の申述をして受理された事案である。放棄者の一人であるDに対して債権を有していたYが、相続放棄後にDの相続人としての持分について債権者代位による所有権保存登記を行い、その持分に仮差押登記を経由した。
最高裁は、相続放棄をした相続人は相続開始時に遡って相続開始がなかったと同じ地位に立ち、放棄の効力は登記等の有無を問わず何人に対してもその効力を生ずると判示した。その結果、放棄後にされた仮差押登記は無効とされた。
この判決の意義は、相続放棄の遡及効が対抗要件主義の適用を受けない絶対的な効力であることを明確にした点にある。不動産取引における通常の権利移転であれば登記を備えなければ第三者に対抗できないが、相続放棄については登記の先後にかかわらず効力が及ぶ。
6-2 民法899条の2との関係
平成30年改正により新設された民法899条の2第1項は、共同相続における権利の承継について、法定相続分を超える部分は登記等の対抗要件を備えなければ第三者に対抗できないと定める。この規定は遺産分割や相続分の指定による相続分超過部分の取得を対象とするものであり、相続放棄による遡及的な相続人資格の不存在には適用されない。
相続放棄をした者は初めから相続人でなかったものとみなされるため、その者には承継すべき相続分自体が存在しない。「法定相続分を超える部分」という899条の2の適用場面とは構造を異にし、最判昭和42年1月20日が示した絶対効は平成30年改正後も維持されている。
6-3 最判昭和49年9月20日(相続放棄と詐害行為取消権)
債務超過状態にあった相続人が相続放棄をしたところ、その相続人の債権者が民法424条の詐害行為取消権を行使して放棄の取消しを求めた事案である。
最高裁は、詐害行為取消権行使の対象となる行為は積極的に債務者の財産を減少させる行為であることを要し、消極的に財産の増加を妨げるにすぎない行為は含まれないとした。相続放棄は相続人の意思および法律上の効果のいずれの観点からも、既得財産を積極的に減少させる行為ではなく、財産の増加を消極的に妨げる行為にすぎないと評価した。
加えて、相続放棄のような身分行為については他人の意思によって強制すべきでないとし、放棄を詐害行為として取り消せるとすれば相続人に相続の承認を強制する結果となり、その不当性は明らかであるとした。
この判決により、相続放棄は債権者による詐害行為取消の対象とならないことが確立した。これに対し、遺産分割協議において自己の取得分をゼロとする合意(相続分の放棄)は、最判平成11年6月11日により詐害行為取消の対象となり得るとされており、両者の法的性質の相違が判例上明確に区別されている。
7 実務上の留意点
相続放棄と相続分の放棄の効果の違い
家庭裁判所への申述による相続放棄(民法938条・939条)は、相続人としての地位そのものを遡及的に消滅させる。これに対し、遺産分割協議で「自分は財産を受け取らない」と合意する相続分の放棄は、相続人としての地位を保持したままの財産取得分の調整にとどまる。
債務超過の被相続人を相続する場面では、この違いが決定的な意味を持つ。相続分の放棄では相続人としての地位が残るため、被相続人の債務について法定相続分に応じた責任を免れない。債務の承継を断つには、家庭裁判所への申述による相続放棄を選択する必要がある。
不動産の相続放棄と登記実務
相続放棄をした者については、相続を証する登記関係書類において当該者を相続人として記載しない。放棄者がいったん相続人として共同相続の登記を経由している場合でも、最判昭和42年1月20日の趣旨に従い、放棄の効力は登記の先後を問わず及ぶため、後に放棄が判明した時点で登記の是正が必要となる。相続放棄受理証明書(家庭裁判所が発行)を登記申請の添付書面として用いることで、当初から放棄者を除外した登記をすることが可能である。
孫世代への影響に関する説明の必要性
相続放棄をしようとする者から「自分が放棄すれば子供(被相続人の孫)が代わりに相続できるか」という質問を受けることがあるが、民法887条2項の代襲原因に相続放棄は含まれないため、代襲相続は生じない。次順位の相続人(直系尊属または兄弟姉妹)に相続権が移行するにとどまる。この点の誤解は実務上頻繁に見られるため、放棄の相談時には必ず説明を要する事項である。
8 関連条文
- 民法887条(子及びその代襲者等の相続権)
- 民法889条(直系尊属及び兄弟姉妹の相続権)
- 民法900条(法定相続分)
- 民法901条(代襲相続人の相続分)
- 民法915条(相続の承認又は放棄をすべき期間)
- 民法920条(単純承認の効力)
- 民法922条(限定承認)
- 民法938条(相続の放棄の方式)
- 民法899条の2(共同相続における権利の承継の対抗要件)
- 民法424条(詐害行為取消請求)
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